跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/02/13

酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎』を読み終える。この本が扱っているデヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』は以前に読んだことがあった。企業の中にある、例えばお茶くみのように存在意義があるのかないのかわからない仕事のことを指して「ブルシット・ジョブ」と呼んでいるのだけれど、デヴィッド・グレーバーと酒井隆史による本はそうした「クソどうでもいい仕事」の実態を暴くだけに留まらず、働くとはどういうことか、なぜ働かなければならないかという労働の意味そのものを問い質しているように思われた。

私たちは、働くことは尊いことだと思っている。故に、お茶くみのような「ブルシット・ジョブ」もまた尊いこと、あるいは意味があることだと思う。企業の中で「この仕事、意味がありませんよね」と言ってしまうことはその意味で「空気読めない」行いとなってしまうのだ。そして「ブルシット・ジョブ」は一見、責任を伴わず金だけもらえるという意味で「おいしい」とも言える。だが、そうした目的も意義も見い出せない仕事を続けていると人はその不毛さに耐えられなくなる、というようなことも書かれている。このあたり、なかなか面白いなと思った。

昼、カロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから』を読む。この著者は既知の中に未知を見出すことが巧いなと思った。メディアで流布されるムスリムならムスリムのイメージを、私はたやすくなぞってしまいがちだ。そして「彼らはテロリスト予備軍だ」と結論付けてしまう。だが、著者はそうした既知のイメージを疑う。彼らと愚直にナマで対峙すること、彼らが語る言葉を聞くことを求める。誰かに言葉で語りかけることは、そこから「私」という主体を生成することだという指摘も私の心に響いた。この著者の『憎しみに抗って』も読みたいと思う。

夜、『鶴見俊輔語録1 定義集』を読む。実に「ズルい」人だなと思う。自分自身を悪人として規定し、決して正しくもなければ矛盾を孕んでもいる「タヌキ」のような存在として彼は自分を語る。これはある種ノーガード戦法のようなもので、自分のスキを見せておくことで逆説的に言いたいことを自在に語ることができる。だが、その「ズルさ」が人間として信頼できるとも思われた。本当の知性とはなんだろう、とも考えさせられた。いかに学ぶかも大事だが、いかに学ばない(unlearn)かも大事、という指摘が印象に残る。なにもかも学び尽くすのではなく、学んだことを忘れる(というか、学んだことに囚われない)気概も大事だ、と。