跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/02/09 BGM: Lou Reed - Walk On The Wild Side

朝、少しTwitterに触れる。今朝は不具合が起こっており、多くのユーザーが戸惑っているのがありありと伝わってくる。思えば私もこうした不具合に悩まされながらTwitterにかじりついていた日々があった。今はTwitterのことを自分が所属する多くのソーシャルメディアの1つとして位置づけられている。ゆえに相対的にそれほど依存せず、「付かず離れず」で付き合えていると思っている。TwitterがなければFacebookがありDiscordがある、と。そしてもっと言えばリアルだってある。金はなくヒマはたっぷりあるウルトラ・スローライフを選んで生きている私なのだけれど、そのようにして自分は少しずつ「リア充」の域に近づいているのかもしれない……と考え、ふと「『リア充』って英語でどう言えばいいんだろう」と思い至る。この言葉は英語にしにくい。ポジティブな意味ばかりではなく、この言葉に込められたふてぶてしいアイロニーをなんとか表現したいと思う。

実家からこちらに帰ってくる。今日も休みなので何はともあれイオンに行きそこでスティービー・ワンダーを聴きながらまったりする。過去に私は自分の家に対してルサンチマン(恨みつらみ)を抱いていた。父親が退職金で建てた家なのだけれど、私はどうひっくり返っても家なんて建てられる人生を送れていない。父からも「おれが若い頃は……」と言われたことを覚えている。その後父も考え方を変えて私の発達障害を理解してくれたのでそのことはまったくもって恨んでいない。ただ、私の中で世の中に対する呪いが募る原因になった家なのは確かなのでそんな家にいるのがイヤでたまらず、したがって大量の酒を呑んだくれて過ごしていた。そんな風にして20代・30代を腐って過ごしていたことを思い出せる。思えば遠くへ来たもんだ……。

昼、サム・プレコップの音楽を聴きながら宮台真司速水由紀子サイファ覚醒せよ!』を読む。かつて宮台真司の書いたものを読み耽り、ほぼ信者と化していたのは過去の日記で書いた通りだ。彼らはこの本の中で崇高なものに触れ、閉塞感に満ちた「社会」を超えた「世界」に触れることの大事さを説いている。それが「社会における自分」を超えた「世界の中の自分」や引いては「自分自身にとっての自分」の位置づけにつながる、と。私の解釈ではそれは世の中の動きにたやすく左右されない、「ブレない」自分の芯を鍛えることにつながるのだろうなと思った。どんな状況に置かれてもたやすくブレない自分。私は(ワンパターンながら)フィッシュマンズソニー・ロリンズの音楽に崇高さを感じるのだけれど、私も知らず知らずの内にこの著者たちが言う「サイファ」を感じたり、あるいは自分自身という存在の不思議さや崇高さに触れていたりしたのかもしれない。

夜、オンラインミーティングに参加してそこで防災について学ぶ。実際に防災訓練に参加された方がその経験をベースにどういったものを緊急時に必要とされるか語られた。トルコの地震や、私が住む地域で過去に起こった阪神淡路大震災について考えてしまう。そうした訓練に参加することが知識をバージョンアップさせ、緊急時にキビキビ動ける身軽さを作り出すのかもしれない。私の場合は緊急時は水と食べ物とメガネ、そして常用している薬を用意したいなと思った。が、私のことだからいざとなればそれに加えて谷崎潤一郎の文庫本、とりわけ『細雪』あたりを持って逃げてしまいそうだと思った。いや、いざとなればその『細雪』のページをちぎっておしりを拭いたりするのに使えるんじゃないかなあと思ったりするので……と1人で言い訳する。