今日は遅番だった。朝、パット・メセニー『Day Trip』を聴きながら多和田葉子『アメリカ 非道の大陸』を読む。とても面白く読めた。こんな風に書いてみたい、とさえ思った。この本のテーマのひとつはナショナリティではないかと思う。どの国に属し、どの国のナショナリティを背負って生きているか。逆に考えれば、人はナショナリティから自由になることはできないのか。多和田の端正な文章に誘導されて移動する「アメリカ」は実にチャーミングな大陸だ。スパイスが効いた、とても美味しい小説だと思った。彼女のように私も小説を書きたい。だが、私には書けない。
若い頃、私はひとつの国に限定されて/束縛されて物事を考えるナショナリストをバカにしていた。若い頃の私は過激だったので、無謀にも「国家とは幻想の産物だ」「国に縛られず、個人が自律して生きるべきだ」とさえ言っていたと記憶している。だが、今になるとわかる。どんなに私が日本という国から離れて生きようとしても、そんな私の行動や思索には常に日本で生まれ育った伝統が張り付いている。私はレディオヘッドも好んで聴くが、それ以上にBUCK-TICKの音楽に癒やされるものを感じる。それこそがナショナリティだろうと思う。
時間があったので、多和田葉子『献灯使』を読み始める。3.11を経由したと思しき想像上の日本を舞台に、鎖国され外国語が禁じられた状況で、汚染された土地を生きる人たちの物語が展開される。これは「今」の小説ではないか、と唸る。もちろんそれはこの作品がフクシマ以後を描いているからというのもあるが、ここで展開されるドラマはむしろコロナ禍で苦しむ「今」を克明にトレースしたものであるようにさえ感じるからだ。そう考えると多和田の予見力に戦慄すら覚える。この本は英語版も出ているので是非読んでみたいと思った。
Instagramのアカウントを取り直した。そして、これから自分が読んだ本や考えを手書きでメモしたことなどをアップロードしようと思った。今日考えたのは上述したナショナリティをめぐる問題だ。ナショナリティは英語圏ではどう考えられているか知らないのだが、日本では「血」の問題として扱われるように思う。どの人間にも流れている「血」。その「血」が穢れるという形で、ナショナリティがひとりの人間の中で混在することが嫌われる。この問題についてはもっと考えを深めなければならないと思った。まあ、間違いを恐れずどんどん他人と「セッション」を行って深めていきたい。