ようやく会社から支給された冬季賞与を受け取ることができた。受け取り、額面を確かめる。そして、私のように1つのところで20年以上働いている人のもらうボーナスはいったいいくらぐらいなんだろうかと考える。その人たちと比べれば多いだろうか、少ないだろうか……もし別の会社を選んでいて、そこで今まで勤め上げていたらどうなっていただろう? そんなことを気にする。昨日のミーティングでも私の待遇のことが少し話題になった。いや、自分はあくまで自分である。それは確かなことなのだけれど、考えてみる価値はあるかもしれない。
いつもこうした次元に考えが及ぶと思うのは、自分自身が「この道」を選んだことを誰のせいにもしたくないということだ。もしもイヤならこの瞬間から本格的に転職するという試みを始めることができる。この町を出て、仲間たちとも別れて自分だけの人生を生きる……でも、それは私はしたくない。銭金の問題ではなく、そんな風に金では買えない(がめつい表現で恐縮だが)仲間がいて、自分の体に馴染んだ仕事があり、自分を癒やしてくれるグループホームがある。その境遇はまさに幸福そのものだと思うので逃したくない。私はこの境遇と一緒に成長していきたいと思っているのだった。私は「この道」を今後も生きる。
信頼できるとある方とLINEでメッセージを交わす。上述したような話になり、今一度自分がここにいる意味・ここにいる理由を見直してしまった。その方からありがたいメッセージをいただく。ああ、子どもの頃は嫌われ者で、ずっと鼻つまみ者だった。ずっと変人扱いされて……今は自分のことを認めてくれる方がいる。大事な方々だ。そうした方々のことを思うとブザマな姿は見せられない。今日も仕事をこなし、終わった後図書館に行き多和田葉子の日記『言葉と歩く日記』を借りてきた。読み返し、何かを得られたらと思う。多和田葉子の日記を読み終えたら森まゆみを読むのもいいなと思っている。
私が所属しているDiscordのとあるサーバで、読書会の動きが慌ただしい。私も早速夏目漱石「思い出す事など」について語れたらと思う。漱石が逝ったのは確か今の私と同じ、40代の終わりではなかったか。結局私は漱石のような「則天去私」の境地には至らず凡人として50代を生きることになりそうだ。漱石、もしくはフェルナンド・ペソアの年齢を追い越して生きる。生まれてきたこと、そして生きていることがそのまま奇跡のように思えてくる。漱石を完読することを目指した読書は頓挫していることを思い出し、また『吾輩は猫である』を読み返すのもいいかなと思い始める。もしくは『明暗』を、そして水村美苗『続明暗』を読み漱石から学べれば。