跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/06/30

幸せとは何だろう、ということを考える。いつも私はこの問いについて考え始めると、小津安二郎の映画の登場人物の台詞が思い浮かぶ。「欲を言えばきりがないよ」と。私はもしかすると、一流企業に入るかベンチャー企業を立ち上げて成功したかもしれない……そんなことを考えることもある。だが、そうなっていた場合私は今のような私とはまるっきり異なる私、つまり挫折の味を知らないが故に(手前味噌になるが)人間的に深みを帯びなかった自分であったはずなので、そのような私がこの私のような幸せな私でありえたか、まったく想像がつかない。

ああ、かつては私は自分のことをずっと時代や政治の被害者だと思い込んで生きていた。いつも書いていることだが、私はロスジェネであり失政や愚策の影響でこのような人生を歩むことになってしまったのだと、そう信じていたのだった。そしてそう主張することさえした。バカなことをしたものだ。いや、いい生活を求めて外側に要求していくことは大事なことだ。だが、どんな人生を歩むことになっても自分の人生の舵を自分で切る姿勢がなければ、ずっと私は外側に翻弄されて虚しく生きることになるのではないかと思う。内側に確かな格律を築いていないといけない。

確かな格律……私がこれまでの人生で一番聞き返した音楽である、フィッシュマンズのことを思い出す。大学生の頃に出会った『空中キャンプ』に衝撃を受け、そこで歌われる境地に影響を受けた。静かにだが確かに、闇雲に働いたり稼いだりせず、上昇志向からも距離を置き、「今・ここ」を肯定する。外側の基準からどんなに惨めな境遇であろうと、内側の私の格律が幸せだと思うならそれに従う。いや、この境地は危険ではある。この境地を推し進めると「自分の快楽のために人を殺してもいいのか」というような極論に落ち着きかねない。ならば自分の信じる幸せがどうして外とバッティングしないのか考えないといけない。

自分の信じる幸せが、外とバッティングしない。それはなぜなのか。それは、私の信じる幸せは私だけで築き上げられるものではなく、外との関係において作り出されるからかもしれない。それは理屈では片付かない。私は人から嫌われたり蔑まれたりした人生を歩んできたので、かつてはずっと人間不信に囚われていた。早稲田に入っても周囲の学生を敵だと思ってしまい、友達も作れなかったっけ。だが、今の私は外側の世界を愛する。出会う人々に対してオープンマインドで接したいと思う。でも、どうしてなのだろう。わからない。「人生はあんたが優しくするだけ優しくしてくれる」と言ったのはチャールズ・ブコウスキーだそうだが……。