跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/05/17

今日は1本映画を観た。マーク・ギル監督『イングランド・イズ・マイン』という映画だ。ザ・スミスのフロントマンであるモリッシーの若き日を描いたもので、観ていて私自身の若い日のことを思い出させられた。私もまた肥大したプライドを抱え、現実で無能な存在として扱われて鬱屈して生きるしかなかった人間だったからだ。ザ・スミスの曲では「このぼくの人生/どうしてぼくの価値ある時間を/ぼくが生きようが死のうが気にかけてくれない人にあげなければいけないっていうんだ」と歌われる。このフレーズはモリッシーの若き日のそんな鬱屈から生まれたのだな、と思った。

モラトリアム、と言ってしまえばそれまでなのだけれど私もかつては就職する際に「せっかく英文学を勉強したというのにどうしてこんな仕事をしなければならないんだ」と思ったこともあった。もちろん、人はどこかで妥協しないと生きていけない。肥大した自分自身と、そんな自分自身を認めてくれない現実。両者の間でうまく折り合いをつけなければならない。私の場合は「これが一生の仕事というわけじゃないんだから」「作家になったらこの経験を小説の中に組み込もう」とかなんとか考えて、必死に仕事に自分を馴染ませた記憶がある。

私はザ・スミスの曲を後追いで聴いた人間なのだけれど、モリッシーが浸る絶望や憤りはそんなに共感できるものではなかった。「誰も知らない惨めなぼく」という境地は私も確かに感じたこともある。だけれど、モリッシーの絶望はややナルシスティックというか「孤高」というか、自分なりの美学をしっかり持っている芯の強い人間のそれのように思われたのだった。村上春樹の小説の登場人物と通じるものがあるかもしれない。私は若い頃、そこまでしっかりした美学を持ちえていなかった。単にひとりのモブとして生きている、という気さえしたのだった。私なんてどうってことない……。

ああ、それから時間が流れ……20年以上続けた仕事が(そんなつもりなどカケラもなかったのだけれど)自分自身を作り上げ、鍛え上げた実感を感じることができる。大人になったわけだ。そして決定的な友だちとの出会いを経て、彼らからいろいろ教わりながら自分自身の輪郭を確かめてきて、自分の生き方や価値観に自信を持てるようになった。モリッシーの美学を絶対と信じる愚を犯す陥穽を避けて、自分自身を信じられるようになった。私はもう「心に茨を持つ少年」ではありえないわけだが、それでもザ・スミスの美学の堅牢さはリスペクトしてしまう。