今日は休みだった。図書館に行き、川本三郎『マイ・バック・ページ』を借りる。60年代の日本における全共闘を描いた書物なのだけれど、革命という夢ないしは理想を描いた一冊として興味深く読む。実を言うとこの時代のことは私は村上春樹『ノルウェイの森』や村上龍『69』、絓秀実『革命的な、あまりに革命的な』くらいでしか知らないのでピンとこないところもあったが、川本が当時ジャーナリストとしてどうシリアスに時代を捉え、ジャーナリズムの理想と現実の間で引き裂かれる思いを体験したか、読み応えがあった。
その勢いで川本三郎『現代映画、その歩むところに心せよ』も読み終えた。川本三郎の映画評は即座に鮮烈な印象を残すものではないが、読みながらじわじわと効いてくる旨味があると思った。この本ではハリウッド産のデーハーな映画ではなく辺境に属する国々から生まれた社会派の映画を主に扱っており、政治的なアジテーションこそないものの川本の良心的で芯の通った政治性が読み取れる一冊となっている。私自身、この本を参考に(というか片手に)映画を観たいと思わされた。アクチュアリティを感じる一冊だ。
裕木奈江のTwitterでの発言について考えている。彼女は「自由な娯楽を嗜むには一定以上の知性が必要」と語っているが、私はそうは思わない。娯楽を楽しむのに必要なのは人生経験か、その人生経験の代わりとなる何物か(田中康夫に倣って「勘性」と表現すべきだろうか)だろう。だが、裕木の発言の背景に彼女が被ったバッシングの経験があると推測するならこの裕木の発言の意味が変わってくることもまた確かだ。彼女はまさに、彼女がドラマにおいて演じた役柄によってバッシングされたことでこの思想にたどり着いたのだろう(いや、裕木がそう明言していない以上「勘繰り」でしかないが)。
私は『月曜日のたわわ』を読むこと(というか、「読んでいる」と公表すること)の是非を論じられない。単純に『月曜日のたわわ』を読んでいないからだ。だが、『テヘランでロリータを読む』を読んだ者として「清潔な」倫理観と理想が「ベタに」体現された社会を生きたいとは思わない。フィクションと現実が密接につながっていることはわかるが、フィクションを求める心理は単純な性欲・肉欲の問題ではなくもっとデリケートなものだとも信じている。ちょうどデヴィッド・リンチの映画を求める心理が単なる現実逃避に留まらずもっとパワフルな「夢見る力」に由来するのと同じように。