跳舞猫日録

Life goes on brah!

外は外、中は中――裕木奈江の発言とその反応に思う

fujipon.hatenablog.com

裕木奈江Twitterでの発言が炎上している。彼女が言うには、「自由な娯楽を嗜むには一定以上の知性が必要で、そうでない人には自制が難しく作品に影響され自分勝手で感情的な行動をとりやすくなってしまう」なのだそうだ。この発言の、とりわけ「一定以上の知性」というところが問題視されている。私見ではTwitterは言葉尻を捉えやすいメディアなので、確かにこの「甘い」発言は様々な誤読を招きやすいものだと思う。私は裕木奈江がこう発言する気持ちもわかるのだが、それは彼女のバッシングの背景からではない(仮にそうした背景があるとはいえ、彼女がそう明言していない以上そのバックボーンを邪推するのは「失礼」だとさえ思っている)。

それで日記で裕木奈江のこの発言から思ったことをダラダラと書いてしまったのだが、このブログエントリーを読んで「バカだから」(書き手のジェントルな言葉によれば「成熟」していないから)フィクションとリアル、虚実の区別がつかなくなるという論に面白いものを感じた。私はむしろ、「成熟」した大人こそ虚実の区別を踏み越えて楽しむのがエンターテイメントだという見方もできるのではないかと思ったのだった。「成熟」した大人だからこそ二次創作を楽しみ、あるいはオリジナルな創作を作る(自分で虚構を作り出すことは『ドン・キホーテ』以来、「虚実の区別」という一線を踏み越えた大人の遊びであったのではないか)。

私は『月曜日のたわわ』を読んでいないし、さしあたって読みたいとも思わない。だが、『月曜日のたわわ』が絡んだこの一連の議論にアーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』を思い出した者として、確かに漫画のグラマラスな表現(「巨乳」という表現はいつの頃からか私はおぞましく感じるようになった。むろん個人の見解に過ぎないが)が行き過ぎた社会は欲望がそのまま露呈された社会、故に自分自身のインナースペースがグロテスクに体現された社会を生きているようでおぞましい。いや、難しい話ではない。私は発達障害故に汚部屋に住んでいるのだけれど、その汚部屋が「外」でも実現されたように感じるというだけだ。

だが、『テヘランでロリータを読む』で描写されていた「清潔な」倫理観が「ベタに」表現された世界にも住みたいとは思わない。前述した自分の欲望が「外」に「ベタに」露呈された現代社会も、「外」の規範が「自分の内面」というパーソナルスペースまでも支配する社会もまっぴら御免だ。ということはつまり、このブログの書き手の言葉通り「外」と「中」をどう使い分けるか。そう言えば「おたく」という言葉はまさに「お宅」であり、「中」の欲望の個的な側面を知悉した人々の間での符牒だったのだな、と思ったのだった……と、ここまで考えた。