この本を読んでいて、そうした「脳がそうさせた」という言葉のリアリティについて考えてみた。ベンジャミン・リベットの実験が語るように(岩波現代文庫に『マインド・タイム』として収められているが、私は不勉強にして未読である)、私たちは意識においてなにかをなそうと考えるその「寸前」に身体が行動を起こしており、私たちは行動を起こしたあと意識で「こうしたかった」とフォローしているというのだ。むしろその行動を「食い止めること」が私たちの意志の表れであるらしい。蚊を叩きつぶそうとする手を「手が汚くなるからやめよう」と止める、というように(という例が出てくるわけではないが)。
それ以外にも脳内の化学物質が極端に欠如したり、あるいは激しく変化したりすることで人間の行動は凶悪な方向に走ったり、あるいは人格そのものにまで影響を及ぼすほど大きく変化することがあるらしい。「脳がそうさせた」という理屈は受け容れられないかもしれないが、この「脳内革命」的な人格の変化は私も鶴見済『人格改造マニュアル』を読んでいて実際に精神科にも通っているので得心が行く(というところまでいかなくとも、酒を呑んだら肚を割って話せる、という常識の中にこそこの人格変化の現象は眠っていると言っていい)。ならば、ますます「自分」がわからなくなる。知られるように、どんな化学物質も摂取せずどんな意思決定も施さずに生きることなど私たちはできないのだから。
ならば、ドーキンスをひねったようなこの「人間は脳の乗り物」という考え方にリアリティはあるのだろうか。私は、この本を読んで國分功一郎がスピノザを引いて議論している「中動態」の議論を想起した。自分が主体的に行っているようで、しかし「能動的」でも「受動的」でもない、自分の内側のなにかに「そうさせ」られているからそうするという感覚。実は、この「脳がそうさせた」は方便として「使える」のではないかとすらこの本を読んで思った(むろん殺人は禁じられなければならないが)。例えば、私がこんな駄文を書くことだってただひとりで肚のうちに溜めておくのももったいない気がするので、「脳」をすっきりさせるために行っているのである。「脳がそうさせた」……というオチで終わる。