跳舞猫日録

Life goes on brah!

2021/11/29

今週のお題「あったか~い」

BGM: 佐野元春 "恋する男"

今日は遅番だった。イオンに行き、脳科学や哲学の本を読もうかと思うが集中して読めなかった。なので、ぼんやりここ最近考えていることを反芻する。なぜ女性のことを考えてしまうのか。なぜ恋を求めてしまうのか……かつて、宮台真司の本を読んでいたら恋の歴史について彼らしくシャープにまとめられていたので、それを読んで救われた気持ちになったことを思い出す。恋とは欧州の宮廷遊戯に端を発した儀礼的なものにすぎず、フィクションである……そんな理屈に救われたのだった。だが、今はこの考えに救われない自分を感じている。

人を恋することができない……私は、子どもの頃女の子にひどく嫌われた。最低、エッチ、近寄らないで。そう言われ続けた。だから女の子に近づくことができず、従って自分の中の恋する気持ちや異性に惹かれる気持ちを発露することができなかった。それは十代になってからも続いた。私は変わり者で、もっと言えば人から変態扱いされて笑われ嫌われいたので、私から誰かを愛していいと誰も教えてくれなかった。私はいつの間にか、愛することを諦めて生きようと思うようになった。その時に先に書いた「恋愛はフィクションである」という説を読んだのだ……。

二十代に差し掛かる頃、私は世界の全てを憎んで生きるようになった。当時もなにかしら物を書いていたように思うのだが、それは世界に対して挑戦状を叩きつけるような気持ちで書いていた。だから、私に相応しいのは他人からの憎しみであると思っていた。誰かが私のことを愛してくれるということも、私から誰かを愛しうるということも、ありえないと思っていた。今は違う。だが、相変わらず私は人をどう愛していいのかわからない。親切にすることはそれなりにできる。だが、それは愛なのだろうか。私は疑ってしまう。

他人からの愛……それは端的に温もりであるだろうと思う。人肌の温もりである、と。そして、その愛する人、愛してくれる人の中で自分を吐露できる喜び、癒しというのがあるのではないかと思う。いや、全ては私の想像にすぎないのだけれど、そんな風に自分を預けることができて自分自身の中に誰かがその人自身を預けてくれる。そんな心地よさを愛と呼ぶのではないだろうか。誰かに理解されること、誰かに認めてもらえること……どうしたってそんな「受容」は必要ではないか、と思う。いや、これもまた理屈のための理屈だろうか?