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Praxis 2022/02/27

野矢茂樹ウィトゲンシュタイン哲学探究」という戦い』を読む。私にとってウィトゲンシュタインを読むことは、決して「研究」や「勉強」の謂ではない。ドイツ語で読んでいるわけでもないし、そもそも哲学を勉強するには私は根気がなさすぎる。ただウィトゲンシュタインの生き方や考え方にはそうした私自身の能力の制約や体質の違いを越えて惹かれるものを感じるからで、多分にこれは私が(彼同様?)発達障害を抱えて生きづらい思いをして、その分内省を試みるしかなかった人生を過ごしてきたからなのかもしれない。

これを別の形で言い換えれば、私は「私固有の生きづらさを解消するためにウィトゲンシュタインを読んでいる」と言えるのかもしれない。そんなことできるわけないだろう、と思われるかもしれない。ウィトゲンシュタインを人生訓や処世術の書き手として読む……バチ当たりもいいところだ。だが、私はむしろウィトゲンシュタインを読んで「なぜ私は私固有の『生きづらさ』にこだわるのだろう。他者ももしかしたら『生きづらさ』を感じていて、別の名前で呼んでいるだけではないだろうか」と考えてみる。そうして根源的なところまで私のナルシスティックな思考を解体したいのだ。

野矢茂樹によるこの本を読み、野矢があくまでどんな他のウィトゲンシュタイン研究者の助けも借りず(あるいは妨害を嫌い?)『哲学探究』を虚心に壊れるまで読み返して得た哲学に触れ、私はまたひとつ救われたように思う。普通、ウィトゲンシュタインや野矢のようにひとつひとつの命題に深入りして考え続ければいずれ限界が来る。難しい話ではない。人は24時間考え続けることはできない。お腹も空くし眠くもなる。そうした本能の要請や、あるいは常識に沿って生きることと重ねながら哲学を極めていくこと……いや、それこそそうした本能や常識をこそ哲学の素材にすること、それを学んだように思う。

なので、この本を読んでウィトゲンシュタインの理解が深まったとは言えないのだった。もちろんそれは野矢の責任ではない。私という読者の限界故のことだ。この本を読んで考えた膨大な理屈やアイデア、思念や妄想をいちいち書き留めるわけにもいかなかったので私はこうして読み終えてからあれこれ思い出そうとしている。だが、概ねそれらは書くまでもなかったりあるいは忘れられてしまったり、識閾下に収められてしまったりしている。野矢に倣って「ちょっと休もう」とひと息つき、そして一緒にまた『哲学探究』の戦いに戻ることにしよう。