人生は上々だ

Life is good.

2022/05/07

今日は休みだった。シェリー・タークル『一緒にいてもスマホ』を読む。なんだかな、と思わなくもないタイトルで訳されてしまった本だが中身はなかなか面白い。私も貧乏人であるにもかかわらずスマホを持っているのだけれど、このスマホが私たちの生活をどう変えたか本書は教えてくれる。スマホは、私たちの生活から孤独になる契機を奪ってしまった。そしてフェイス・トゥ・フェイスでの会話もまた奪ってしまい、私たちの生活から共感力を育むチャンスを奪ってしまった、と本書は語る。実に説得力に富む議論が展開されている。

面白いのは、ネットを使うと私たちの中にあるネット人格が立ち上がるということ。私にしても私ひとりでいる時はこんな人間ではない。ネットを使う時はできるだけ公明正大を目指そうと振る舞っているつもりなのだけど、リアルでひとりに戻ったらそんな公明正大とは無縁のわがままで低俗な人間になる。タークルの議論を読むと、そうした乖離というか二重性がネットが生み出す問題のひとつとされているのがわかる。この二重性はしかしどうした弊害を産み出しうるのか私にはわからない。私の中に「この私」ではない私がいる。それはまずいことなのだろうか。

確かに、「この私」とそうではない私の乖離はストレスをもたらすだろう。そして、そうしたネット人格を生きようと「この私」が無理をする可能性もある(もちろん理想の自分になろうと努力することは大事なことなのだけれど、そうした「自己改造」にしてもまずは「この私」をまるごと認めることが大事なのではないかと思う)。問題があるとするなら、私はネットがそうした「イケている自分」を発信させようとユーザーに無理な労苦を強いることだと思った。人は「イケている自分」にそう簡単にはなれない。だからこそ憧れるのだ……ダメだ。書いていてもちっとも「平たく」何事かを書けたという気がしない。

私のことを書けば、私は「イケている自分」を発信しようとは思わない。それは単純に「人と同じことをするのも気が引けるから」だ。そしてそれは他の人にも伝わっているらしい。私のこの日記が契機となって日本語を学び直しそして日記を書き続けることにまで昇華させた人たちを私は知っている。私は私自身の真実を語るように心がけており、それがそうして人を動かしているのなら書いた甲斐があるということだと思った。したがって、本書に登場する人たちとはまた別の形でネットを使いこなしているということになるのかもしれない。いや、ある意味では私は自分はネットにきりきり舞いする弱っちい人間なのだなとも思うのだけれど。