今日は遅番だった。朝、ティム・インゴルド『生きていること』を読む。ちょうど私が今興味を持っていることとシンクロする話題について議論されているので驚きつつ読み進めた。生きることとは、ただじっとしていることではなく動き始めること。例えば歩いたり考えたり、書いたり話したり具体的なアクションを起こすことだということが書かれている(と受け取った)。そうしたアクティブな行動が世界を変え、世界がそうした私たちの行動にリアクションを返すことでまた新たなダイナミックな変化が起こる。そんなことを考えた。
LINEのオープンチャットで、少子高齢化社会をどう捉えるかという議論が成されていた。移民・難民を受け容れるか、AIの進展に期待するか……ある参加者が、こうした現象はそれまで介護に関わったことがない人が介護に関わることで成長に繋がるのではないかという意見を語っていた。複雑な気持ちになる。働くこと、困難に立ち向かうことが人間成長に繋がるという発想は私も自分の人生経験からわかるつもりではある。だが、一歩間違えればその考え方はブラック企業の横暴な論理に繋がりえない(「やりがいをエサに人を搾取する」というものだ)。
最近Spotifyで伊藤穰一のポッドキャストをよく聞いている。茂木健一郎がゲストとして参加した回の内容が気になる。伊藤穰一もDiscordを使ってコミュニティを作っているらしい。Discordに可能性を見出し使いこなすことに感銘を受け、彼がどんなことを考えているかもっと知りたいと思った。茂木健一郎が参加した回ではニューロダイバーシティやメタバースについて語られ、テクノロジーがどんな風に社会を大々的に変化させるか、明るい未来が語られる。絵に描いた餅、と言えばそれまで。だが私はここで語られる楽天的な未来に賭けたい。
夜、仕事をしながら自分自身のこれまでの人生を考えた。確かに自分はベストセラー作家にはなれなかった。そして、一生そうなることはないだろう。だが私は今、自分が書くものにある程度満足できている。そして、確かにすごい読者たちに読まれている。ここまでたどり着けたことが我ながら素晴らしいことだと思った。英語もそれなりに喋れるようになった。もちろんこれからも書き続けるつもりなのだけれど、もうこれでもいいかと現状を肯定する心理が働き、幸せを感じ始めている。かつてのハングリー精神を失ったことは果たして幸せなことなのかどうなのか?