犬は吠えるがキャラバンは進む

The Dogs Bark, But The Caravan Moves On.

2022/07/15

ブラーのアルバム『レジャー』を聴きながら阿久津隆『読書の日記』を読み続けている。なぜこんな本を読むのだろう、と思う。読んでも仕事につながる知識が得られるわけではない。タメになる本というわけでもない。それでも私はこの本を読み続ける。読んでいる間、私は濃密な幸福感を抱く。何かの役に立つから読む、というのではない。ただ活字を追いかけている時、私は幸せでありそれで満ち足りている。それだけで充分ではないだろうか、と思う。悪く言えば快楽に溺れてはしたない行為である、とも言える。読書家とは一種のジャンキーなのかもしれない。

身近にコロナ感染者が出た。それで、グループホームの方も忙しく仕事をされている。そうした方々やジョブコーチの件で奔走している様々な方々のことを思う。コロナのことを少し侮っていたかもしれない。東京では感染者が増えているとかで、このあたりでもいつ感染者が現れてもおかしくない状況だ。自分にできることをやってコロナにかからないように注意しないといけない。先に書いた方々の努力に頭が下がる思いがする。このコロナ禍が収まるのは、本当にいつのことになるんだろう。来年? いや、もっと後?

『読書の日記』でこんなことが引用されている。読書に必要なのは静寂であり雑音から身を遠ざけることである。今はネットワークが張り巡らされた社会であり、それゆえに静寂を確保することは難しくなっている、と。確かにそれはその通りで、私自身『読書の日記』を読み進めている時はパーソナルな自分だけの世界に入り込んでいく実感を感じる。ただ、自分だけのそうした読書の世界に入り込むのは他人とそんな読書体験を共有したいからだ。孤独な体験から掴んだものを再び公共の場に還元したい、そんな思いから私は本を読む。

『読書の日記』の読書も終わりを迎えようとしている。次は阿部昭『単純な生活』を読み返すか、ドン・デリーロ『リブラ 時の秤』に挑んでみるか。私の読書ライフは終わらない。かつては読書は孤独に生きている自分自身の心を癒やすための手段だった。ずっと、40歳の時に運命的な出会いをするまで自分は独りぼっちだった……今はLINEやWhatsAppでつながれる絆があり、支えて下さる人たちがいる。おかしなもので、私は私のままいついかなる時も変わっていない。無理をしているとも思わない。私は私のまま生きていて、次第にそんな私を支えてくれる人たちが現れてきたのだった。プリファブ・スプラウトの歌詞「人生は驚きの連続だ」という言葉が身に沁みる。