跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/02/27

バカなことを口走っていると思われるかもしれないが、私は時々「どうして自分は生きているのだろう」と思うことがある。なぜ自分の心臓は止まらないのか、なぜ自分の臓器は動き続けているのか……もし止まるとしたら(そして、いずれそれは絶対に止まる)いつなのか、その時自分はなにを見るのか、そんなことを考える。他の人にしたって条件は同じはずなのに、なぜ他の人はそんなことを考えないでいられる(ように見える)のだろう……そんなことを思う。単に私が暇人なだけなのかもしれないが、今日も私はこれについて考えをめぐらせた。一体なにを見ながら最後を迎えるのだろう……。

あるいは、私は「いや、私の心臓は止まらない」と信じるべきなのだろうか。この生は止まらない。ずっと続く……そう(無理矢理にでも)信じること。'It Ain't Over Till It's Over'。時間は流れ続け、世界は変化し続ける。「言葉はただ生の流れの中で意味をもつ」(ウィトゲンシュタイン)。吉田健一の卓抜な時間論であり人生に効く一冊である『時間』を読み返してみようか……おかしなもので、なにかに夢中になってしまうとこんな死の恐怖(?)を忘れ満ち足りた気分になれるのだ。ああ、かつては死なんて怖くないと酒に溺れカフカのように早々に逝きたいと願ったものだが、今は「まだだ」と思う。まだやり残したことがある。

なにかに触れると(例えば今日のような日だまりの温もりに触れ、そしてウクライナ情勢を伝えるニュースに触れると)、心が揺れる。ということは私の心は外部に反応して動いているということで、私が外部をコントロールすると(例えば部屋から出て散歩をするとか美味しいご飯を食べるとかすると)気持ちは変わる。私の心を変えられるのは私である。私が主体的に/能動的に私を変えられる。むろん私は広大な環境や関係の中で生きる動物だが、無力ではない(かもしれない)。ある時から私はずっと、自分の感情に自分で責任を負うように生きてきた気がする。少なくとも可能な限り自分に自分で働きかけてみるように生きてきた。そうしてもいい、と友だちが教えてくれたからだ。

そのようにして自分の心をコントロールする触媒として音楽は欠かせない。ここ最近スティングを聴き、ニュー・オーダーを聴きI am robot and proudを聴いている。野矢茂樹ウィトゲンシュタイン哲学探究」という戦い』を読んだ。いつ死ぬかわからない生、ならば今与えられている時間を(私が自分の生のリミットを決められない以上、生は常に「与えられている」。生きてるだけで丸儲け……)精一杯生きたいと願う。もちろん時には昼寝をしたり、意味のない戯言にうつつを抜かす時間も必要だろうと思いつつ、だ。「幸福に生きよ」というウィトゲンシュタインの草稿のメッセージを思い出す……。