跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/02/18

上野俊哉『思想家の自伝を読む』という本を読み始めた。上野俊哉の書くものはこれまでも注目して読んでいた。読者として、彼からはいろいろなことを教わった。とはいえ、私の理解力の限界もあって難解な思想的知識は未だ歯が立たないままである。だからむしろ、聞く音楽や読む小説といった軽い(?)次元の事柄を私はずっと模倣しようとしてきたように思う。『思想家の自伝を読む』を読んでいるとそんな彼が自分自身の思想をどのように練り上げてきたか、青春時代/修行時代が綴られているのでミーハーな興味が湧いてくる。

上野は「自分探し」に対して批判的/否定的な態度を採る。むしろそのようにして自分自身を見つけたいとするなら、自分を見つめるのではなく他人を見つめてはどうか、他人の書いたテクスト(「思想家の自伝」がまさにそうだ)に触れて自分をかき回してはどうか、と提案している。そのようにして他人の思考によって暴力的に自分自身を更新(?)されることは、一歩間違えれば危ういものではあるだろうが確かに私自身の体験から見て快いことだと思う。私も、自分が何者なのかわからなかった時にずっと村上春樹の小説を読み耽ったことを思い出す。

上野の主張を私なりに(やや拙く)敷衍すると、彼は思想とは(上野自身の思想も含めて)先人の影響なくしては語れないものであると語っている。つまり私たちは先人の思想をコピーして語っているということになるわけで、そこに純粋なオリジナリティは存在しない、ということになる。私も、私自身の思考を練り上げるにあたって自分の内側を掘り下げるのではなくむしろ他人の思考を「腑に落ちる」まで読み込んで考え抜いたことを思い出す。そうして考え抜いても自分なりに納得できるかどうか。そこで「自分らしさ」が生まれるのかなと思う。

私にとって、「自分らしさ」とはくだらない概念だった。私はいつも自分の中からあふれ出る過剰な「自分らしさ」というか「個性」に苦しめられて、もっと他の人と同じように読んだり書いたりしたいと思って、しかしそれができなかった。だが、今はその「自分らしさ」を愛おしく思う。このクセのある考え方、ものの捉え方のせいでこれからも随分苦労するだろうなと思うのだけれど、それでも私から生まれる思考のいびつさを愛おしく感じる気持ちというものが芽生えてきた。それが大したことがない、オリジナリティのかけらもないものであろうと私は私の思想に基づいて生きる。そして、それを書き続ける。