数多くの有名人の「晩年」を扱い、その生涯を紹介した書物である関川夏央『人間晩年図巻 2008-11年3月11日』を読んでいる。だからなのか、このタイミングで出くわした西村賢太の死に衝撃を受けた。とはいえ、私は彼の露悪的なところが苦手だったので随筆と日記を少し読んだだけで終わっていた。信頼できる読者である知人が車谷長吉と並ぶ存在として称賛していたので、『苦役列車』を読んでみようかと思う。彼の日記を読む限りでは、藤澤清造の小説を始めとする文学に対する真摯さを持っていた、いい意味で反時代的な書き手だったと思う。
車谷長吉が亡くなった時のことを思い出した。姫路の書店でふと「追悼」と称されて彼の作品が並べられていたのを見て、車谷長吉の死を知りショックを受けたのだった。いずれ誰も死ぬという事実を知っていた、とはいえ……不摂生が原因だったのかわからないが、寿命を削るようにして書いていた作家であることは間違いない。むろん、本音としては彼らにもっと長生きしてもらいたかった。だが、その一方で彼らが文学の世界に己の才能をぶつけて激しい作品を遺したことを幸福だとも思ったのだった。『一私小説書きの日乗』をまずは読み返そうか。
『人間晩年図巻』を読むと、過去のことを思い出す。有名人たちが綺羅星の如く存在して、世の中を賑わせていた頃……とはいえ「あの頃に戻りたい」というようなことは思わない。私にとって過去は二度と体験したくない出来事ばかりだった時期だ。発達障害のこともわかっておらず、それ故にいじめにも遭ったし生きづらさを感じたりもした。就職活動で屈辱を味わって、その後酒に溺れた。そんな時代に二度と戻りたくない。『人間晩年図巻』はその意味で魔性の書物でもあると思う。著者の目線はしかし、確実に「今」を捉えている。そこに留意したい。
『人間晩年図巻』の他に、十河進『映画がなければ生きていけない 2007-2009』を読み進めている。コラムで、人生をイージーモードで生きるとはどういうことか、という問いが出てくる。私も早稲田に入れたということで人生をイージーモードで生きたのかもしれないな、とも思う。だが、卒のない人生、効率ばかり考えて生きる人生が幸せだとも思われない。その意味では私は自分の無駄ばかりの人生を愛する。無駄……つまり、学者になりたいわけでもないのに脳科学の本を読んだりする自分自身の人生。そんな無駄の積み重ねがもしかしたら、「これから」活きるかもしれないではないか。