11月に入り、ボージョレ・ヌーヴォーの解禁が近づいてきた。思い出すのは、私もお酒に呑まれていた時にボージョレ・ヌーヴォーを買い込み、フランス料理なんてロクに食べたこともないのに1本開けてしまい、呑んだくれたことだった。決して楽しいお酒ではなかった。呑まれていた頃、なんで生まれてきたのかと考え、死にたいとそればかり思っていたことを思い出す。自分のことが嫌いで、消えてしまいたいと思って……今は自分のことを受け容れられるように思う。だが、それは断酒会と発達障害を考える会のおかげであるとも思っている。
堀江敏幸『定形外郵便』を読み終える。たまたま20世紀末尾に発表された『回送電車』を読んだからなのか、堀江敏幸という人の変わらなさに慄然とする。変わらない、ということはネガティブにも取れる言葉だが、よく言えばそれだけ若くして堀江敏幸の書くものは完成されていたということになろう。完成されたものを再生産している……もちろん彼はたくさんの本を読み、書いて考えて思索を深めたはずでもっと詳細に読み込めば違いが見えてくるのかもしれないが、しかし冷静さと地道な考察の凄みは変わらないと思った。
それ以外の本だと、前にも書いたけれど古井由吉『槿』や長谷川郁夫『吉田健一』を読み進めている。『槿』は、私が大学生の頃に世評の高さに惹かれて手に取り挫折してしまった本だ。まだ読者として若すぎたのではないかと思う。どんな本にも、出会うべきタイミングがある……私は10代でドストエフスキーと出会わなかった私の貧しい読書体験をずっと恥じてきたが、40代になって『死の家の記録』『罪と罰』を読んだのはそれはそれで私らしいというか、既にそれなりに大人になって読んだからこそ身に沁みたのではないかとも思うようになった。
人によっては晩年に差し掛かって、それまで読んだことはおろか名前すら知らなかった『カラマーゾフの兄弟』を読むこともあるだろう。むろん、それを遅すぎると嗤うのは自由だ。だがそんな風に人の人生をあげつらうことになんの意味があるだろう。どの人間の人生もかけがえのないものであり、それ故に意味がある。そんな他人の人生の奥深さに戦慄する感受性を持ち得ない人間よりも、私は晩年になって『カラマーゾフの兄弟』に戦慄する人間の傍に立ちたい。他でもないドストエフスキーこそが、そうした個々人の苦悩の尊さを描いた作家ではなかっただろうか?