跳舞猫日録

Life goes on brah!

秋の日誌6

今日はぼくは仕事が休みでした。朝、時間があったので御法川修監督の映画『すーちゃん まいちゃん さわ子さん』という映画を観ました。興味深い映画だと思いました。それで、映画について考えている内にふと昔読んだアランの『幸福論』を読み返したくなりました(なぜ『幸福論』? と思われるかもしれません。これについては機会がめぐってきたら書きます)。早速図書館に行き借りてきたのですが、どうやら以前に読んだ時は無理をしていたのか全然内容を覚えていませんでした。まあ、よくあることです。ですがアラン『幸福論』は面白い。今回読んでいて、こんなところが目に留まりました。長くなりますが引用してみます。

舞台に立つのを死ぬほどこわがっていたピアニストが、演奏しはじめるやいなやたちまち直ってしまうのをどう説明したらいいのか。その時はもう恐怖など考えていないのだというかもしれない。その通りなのだ。でもぼくは、恐怖の正体を仔細に考えて、ピアニストはあの指の柔らかい運びによって恐怖を揺り動かし、追い払ってしまうのだと理解したい。なぜなら、われわれのからだの中では、すべてがつながっているので、胸が締めつけられていたら、指はよく動かないから。柔らかさは、硬さと同じように、からだの全体に浸透して行く。だから、よく制御されたこのからだの中では、恐怖はもう存在しえない。(アラン『幸福論』岩波文庫

これは、まさにぼくのことではないか、と考えました。ぼくは実を言うと肉体労働的な仕事をしているのですが、いつも仕事前は「死ぬほど」仕事に入るのが怖いです。失敗したらどうしよう、と考えるどころではありません。成功する予感がしないのです。もし途中で気分が悪くなって倒れたらどうしよう、もしあんなことが起きたらどうしよう、こんなことが起きたらどうしよう……と。『スペランカー』じゃあるまいし、そんなに致命的なことなんて滅多に起こらないものなのですが心配性が極まるとロクでもないことしか考えられません。なので、仕事前はいつも憂鬱です。この仕事が務まるなんて想像もつかない……。

ですが、仕事に入ってしまうと「たちまち」仕事モードに脳が切り替わります。いや、身体が切り替わると言った方が的確かもしれないです。ぼくは『シティーハンター』という漫画を知っています。あの『シティーハンター』で冴羽獠という女好きの主人公が仕事に入るとキリッとシリアスな人間としての様を見せるように、ぼくも普段はエッチなことを考えてのんべんだらりと生きているのですが仕事に入るとなんだかシャキッとしてきます。この秘密を解き明かそうと思って、今の仕事を始めてから22年ほど経ちますが(もっとも、この「仕事モード」の謎を見つけたのはつい最近です)なかなか見つけられません。

ぼくは大学で英文学を学びました。ポール・オースターというアメリカの現代作家について卒論らしきものを書き、そしてナサニエル・ホーソーンやラルフ・ウォルドー・エマソンウォルト・ホイットマンといったアメリカの作家の書いたものを読み漁りました(今でも、ビートニクのひとりであるアレン・ギンズバーグという詩人の分厚い英語のペーパーバックを寝る前に読むことがあります)。ぼくはもともと翻訳家になりたかったのでした。ただ、当時はインターネットもそんなに普及しておらず出版社に売り込むコネも実績もなかったので諦めました。そして前にも書いた通り就職活動をしてうまく行かず、自殺未遂をしました。

その後、半年のニート期間を経て今の会社に入って20年以上……よく頑張ったものだと思います。とはいえ、ぼくはこんなに続けるつもりもなかったのです。今でも、正直辞めたいなと思うこともあります。続けていたって出世が約束されているわけではないし、ぼくがなにはともあれ鍛えた英語力も役に立ちません。ですが、ぼくは会社に拾われた際にこれが最後のチャンス、命綱だと思って必死に頑張りました。『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジよろしく「逃げちゃダメだ」と思って仕事に食らいついて……それでもうまく行かなくて最終的に2度目の自殺未遂をするのですが、それはまた別の話です。

英語力が役に立たないのに……というか、大学で学んだことはこんな仕事のためのものではなかったのに、一体なにをやっているのだろうと思うこともありました。ぼくの理想の仕事はこんなものじゃないと思って、理想と現実のギャップに苦しんで酒を浴びるように呑む日々が続いて……これもまた別の機会に語りましょう。ぼくがなにを言いたいのかというと、ぼくは仕事を続けてきたのは不本意なこと、敢えて言えば偶然もたらされた救いの手のようなものだった、ということです。魂の修養のようなというか、お寺で僧侶がお寺の掃除の際に「これも修業だと」心を無にして磨くように、ぼくも今の仕事をこなしてきたのでした。

でも、今ならぼくは仕事を続けてきてよかったと思うことができます。それは、ぼくはなんの予測もしていなかったことなのですが、20年以上続けてきた仕事の記憶やコツがぼくの身体の隅々にまで浸透しぼく自身を形作っているからです。よく「筋肉は裏切らない」と言いますが、ぼくはそれに倣って「身体は裏切らない」と言えるのではないかと思います。頭で考えることは錯覚やバイアスがあって間違うことはしょっちゅう。でも、身体が教えること(リズムや勘といったものです)は滅多に間違わない……というのはぼくだけなのでしょうか。まあ、これに関してはもっと考えを深める必要がありそうです。

アランはこう書きます。「われわれが情念から解放されるのは思考のはたらきによってではない。むしろからだの運動がわれわれを解放するのだ」。この言葉に倣って、ぼくも自分の「からだ」を大事にしたいと思います。ぼくたちはなんだかんだ言って「からだ」を動かさないと生きていけません(脳だけが1個の個体として存在している、というあり方は考えにくいしその場合にしたって脳は1個の「肉体」なのです)。なら、この「からだ」を大事にして「からだ」が感じる快感を信じること、それも大事だと思うのです。だからぼくはお酒を辞めて今に至ります。