跳舞猫日録

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ミヒャエル・ハネケ『カフカの「城」』

ミヒャエル・ハネケカフカの「城」』を観る。タイトル通りフランツ・カフカの未完の小説『城』をハネケなりに映像化したものである。ハネケとカフカ。興味をそそられる組み合わせだ。ハネケが一筋縄ではいかないパーソナリティの持ち主であることはこれまで付き合ってきたのでわかっていたつもりだが、カフカも一見すると20世紀文学を代表する巨匠のようでありながら実は煮ても焼いても食えないパーソナリティの持ち主でもある。このエイリアン同士がタッグを組むことによって生み出された変種/ハイブリッドは、実にクセモノとしかいいようのないものだった。

カフカの小説に触れるにあたって、実はスジにこだわることは得策ではない。比較的まとまっている『変身』がポピュラーだからなのか不条理な作品を書くことに長けていると思われがちなのだけれど、カフカの場合完成度の高さで勝負するというよりは完成度を犠牲にしたデタラメさで記憶されるべきだろう作家だからだ。この『城』にしたってそうだ。主人公Kは本当に測量士なのだろうか? その自称測量士は「城」になぜ赴こうとするのか? その「城」はなぜKの行く手を阻むのか? にも関わらず「城」がKを「よくやってる」と評価するのはなぜなのだろうか? と、こちら側を引きつけるフックとしての謎がずらずら出てくる。

そして、カフカ自身はこの謎にどう落とし前をつけようとしていたのだろうか。ここからが更にややこしくなるのだけれど、カフカはきっとそんな謎に自ら翻弄されるだけで自主的に解き明かそうとしたわけではないに違いない。『城』は未完の小説だが、そもそも小説が完成するとはどこで判断されるのか。それは取りも直さずオチがついた時だろう。なら、このオチがない冗長な作品は終わるわけがない。モンスターないしはエイリアンのような奇物なのだ。その奇物をなぜハネケが映画化しようと考えたのかはわからないが、ハネケの場合はその奇物を等身大のスケールで描こうとしたかのように感じられる。

つまり、原作にかなり忠実に映画化されている、と言ってもいいのではないかと思うのだ。ハネケは流石に原作をぶち壊して己の美学を語らせる暴挙は避けたのかもしれない。そして、ハネケ流『城』が印象的なのはメロドラマのような出来になっていることだ。Kはフリーダとなにがなんだかわからないコミュニケーションの末に仲良くなり、この訃報もなく謎めいたデタラメな世界においてフリーダこそがKの味方となる。彼らは事態が宙吊りにされた状態、つまり「城」のことも測量士のことも、Kとは誰なのかということさえもわからなくなった状態で、逢瀬を重ねる。

考えてみれば、Kは一体何者なのだろうか。先にも書いたが、この映画では(カフカの原作自体が「そういうもの」だから必然的な帰結なのだけれど)Kの人となりが一切描かれない。何者なのか、どんなこだわりを持っているのか、なにがしたいのか。そういったエゴが丸っきり匂わないのっぺらぼうのような人物として描かれている。そんなカフカの作品の「のっぺらぼう」を、同じように登場人物たちに過度に情報を付与しない「のっぺらぼう」の群像劇を好むハネケが活かしているのはごく当然だと言える。だからこの映画はかなり評価が割れるだろう。エゴのない「のっぺらぼう」が、エゴが剥き出しにされて当たり前のメロドラマを演じる……無理があるどころの話ではない。だから当然のようにあられもないセックスの場面が印象に残る……だけとも言える。

従って、この作品は私見では失敗作以前に毒にも薬にもならない作品として成立しているように思う。ハネケの毒を期待する人は肩透かしを食うのではないか。何度も眠くなった……と書いて、この作品は「眠り」が重要なテーマであることに気付かされる。脳や身体の疲労を解きほぐす「眠り」を登場人物たちは貪る。それだけカフカ&ハネケ的な世界はストレスが溜まる生きづらい世界であるという証左なのかもしれない……と書けばおふざけもすぎるだろうか。しかし、私自身カフカ&ハネケが生み出したこの煮ても焼いても食えない魔物にほとほと疲れて/憑かれてしまった。