跳舞猫日録

Life goes on brah!

ミヒャエル・ハネケ『タイム・オブ・ザ・ウルフ』

ミヒャエル・ハネケ『タイム・オブ・ザ・ウルフ』を観る。「世界の終わり」をハネケらしく扱った映画である。ハネケが描く「世界の終わり」……なかなかそそられる。考えてみればハネケは「終わり」に敏感な作家だった。デタラメに思い返せば『セブンス・コンチネント』は一家心中(つまり一家の生活の「終わり」)を描いた作品であり、『愛、アムール』は老老介護の果て(つまり夫婦の生活の「終わり」)を描いた作品であった。『ファニーゲーム』にしても同じことは言えるだろう。では、そんな「世界の終わり」はどんな様相を呈するというのか。この映画を見ていると単に感傷に浸って過ごすことができない座りの悪さを感じさせる。

まず、この映画が凄いところは一体なにが起こっているのか説明しないところである。なぜ一家は山小屋らしきところに冒頭で到着するのかわからない。そんな風に冒頭で巧みに情報を省略した「ツカミ」を持ってきてこちらを引きずる手腕は流石とも言えるが、これが単なる作劇上の工夫と思えないところがハネケの凄さであるとも思う。それを言い出せば『ファニーゲーム』だって一体あの2人組はなんなのかなかなか説明してくれない。ハネケは多分人間を描くことに興味がないのではないか。ハネケの描く人物像はいつだって薄気味悪い「のっぺらぼう」である、と言い切ってもいいのではないか。

「のっぺらぼう」が集う終末の景色/滅びの情景……事実イザベル・ユペール演じる妻と子どもたちの旦那は早々に山小屋で不審者に撃ち殺されてしまい、一体それがどうしてだったのか(律儀に解釈すれば食料をぶん取られないためであり、自分たちが追い出されないためであったとは言えるのだが)わからないままだ。イザベル・ユペールたちはその後納屋に逃げその納屋を火事で焼いてしまい放浪せざるをえなくなるが、この「火事」、つまり「炎」はこのあともこの映画で重要な役割を果たす。というかこの映画は「炎」をどう扱うかという映画ではないか……と駄ボラを吹いてみる。

「炎」もしくは私たちが今手を焼いている「コロナ禍」とは、それはどこかに人間を攻撃する意思を有しているわけではない。ただ、暴走すると始末に負えない厄介な現象であるというだけである(そこを取り違えると、コロナウイルスを擬人化し意志を読み取ろうとする陰謀説にハマることになる)。だが、私たちはついついその凶暴さを一方で世界を破滅に導く凶悪さと取り違え、あるいは世界を真の浄化に導く神の意志と取り違える。その意味でこの映画の最後の最後で登場人物が行うある選択が印象に残る。ネタを割らない程度に言えば、その人物は「炎」の前に裸身を晒す。

「炎」の前に裸身……それは容易く焼身自殺を連想させる。でも、なぜその人物は焼身自殺を考えるのか。それは、生きていてもなんの希望も持てず明日も見えない状況(いや、ある意味では見えすぎるほど見えていると言ってもいいのかもしれない。どうせ食料も水も尽きた「世界の終わり」が続くだけなのだ)で、自分自身の主観を消すことを意味する。辛さも悲しさも苦しさも感じてしまう自分のエゴを消す……これは狂気の行動である。確かにエゴを消してしまえば苦しむことはなくなる。だが、その行動は自我の暴力的な消滅を意味しよう。それは救済なのだろうか。

この顛末は語らないでおこう。事務的に評価するなら、この映画はハネケの作品の中でもさほど光っているとは思えなかった。先述したように冒頭は「ツカミ」が光るのだが、その後はハネケらしく真綿で首を絞めるスローモーションの展開が繰り広げられるのだ。サスペンスのタイトでスピーディーな展開を読もうとすれば空振りに終わるだろう。だが、「世界の終わり」とはそんなものじゃないだろうか。このコロナ禍のグダグダを見ていると、私たちは多分世界が終わるその寸前までジョークに笑ったりわかりあえなさに苛立ったりして、ハネケの映画のような現実を生きることを強いられるのだなと半畳を入れたくなる。