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クロエ・ジャオ『ノマドランド』

クロエ・ジャオ『ノマドランド』を観る。私は今の会社で働いてかれこれ20年以上経つ。会社に愛着があったわけではない。辞めても他にやることもないので、ダラダラ続けているうちにそれだけの歳月が経ってしまったわけだ。知られるように終身雇用制度が崩壊した現在において、一箇所に留まり続けることはかつてのような意味を持たなくなりつつある。今はむしろ、自分の能力を磨きそして自分を売り込める場所へと勤務先を変えることが称揚されつつあるのだろう。そうした点々と自分の定住先を変える勤務者を「ノマド遊牧民、という意味だという)」と呼ぶらしいのだが、ではこの映画はノマドワーカーのどんな現実を教えてくれるのだろうか。


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フランシス・マクドーマンドが荒野で用を足す(!)映像まで展開されるこの映画は、彼女の渋い演技でこちらを酔わせる。悪く言えば、色気とは無縁の映画である。わかりやすい華のある俳優が出てくるわけでもないし、目を引くアクションやロマンティックな展開も登場しない。描かれるのは自分の車で生活し、アマゾンの工場やファーストフード店て日銭を稼ぐ主人公の日々の記録だ。ひたすら地味に、手堅く日々の生活が綴られる。そのタッチはドキュメンタリーそのもので、私はこれはもう現実に登場する女性を追いかけたノンフィクションなのではないかと錯覚してしまったほどだ。その意味ではクオリティは高い。

そこで描かれる現実とは、わかりやすいところで言えば用を足すために水洗トイレではなくバケツを使うしかないというところ。風呂にも満足に入れないし、髪も自分で切らなくてはならなくなる。車は定住するために改造に改造を重ねるので、なかなか新しい車に買い換えることができない。車中泊が禁じられている地域では彼女は追い出される。そんな厳しい現実だ。いや、これらのことはあらかた想像がつくというか想定内に収まる現実かもしれない。だが、改めて映像にされると言葉を失う。このあたり、製作者がノマドをよく見ているなと唸らされてしまう。ノマドに憧れる人は必見だろう。

私は当初、この映画はノマドワーカーに関する映画であり働き方を告発した映画であるとばかり思っていた。なぜそんなことを思ったのかわからない(Filmarksで前評判を仕入れた時に間違いがあったのかもしれない)。だが、この映画はもっと射程が深い。この映画では流浪の民というかアメリカという土地(いや、アメリカにこだわらないかもしれない)が孕むジプシー的な人々の生き方の伝統まで言及しているように感じられる。ノマドワーカーの生き方はその意味ではもっと古典的なものなのかもしれない。例えばヘンリー・デヴィッド・ソローのように? このあたり知識がないので当てずっぽうになるが。

だが、この映画はその丹念さというか細かさ、そして生々しさにおいて確かに優れているのだがそれが裏目に出ているところもあるように思った。生々しすぎてカタルシスを感じさせてくれないのだ。この映画は「ヤマ」がない。主人公を劇的な事件が襲うでもなく、のっぺりした厳しいノマドワーカーの危機に始終精神を蝕まれるだけである。だからなるほど痛々しさはあるのだが、「で?」と思ってしまう。彼女がノマドワーカーになってどうなりたいのかがわからない。あるいはノマドワーカーになった動機もわからない。彼女の人物像が見えてこない。そこが弱いのではないかと思った。敢えてのっぺらぼうのような人間を描いたという戦略があるのだろうか。

とはいえ確かにこの映画は優れていると思う。恥を忍んで言えば、私は前述した定住する人間、定住しすぎて今更転職も移住もままならなくなった人間故に(新天地で働くことを諦めてしまった人間であるが故に)ノマド(ワーカー)に対して憧れを抱いていた。だが、それはサラリーマンがホームレスを自由人として崇め奉るのと同じトンチンカンなことであると思われたのだ。この「俗情」(大西巨人)をぶっ壊したという意味で『ノマドランド』は優れた映画であると思う。だが、スッキリしない後味が残る。この後味を忘れず問題意識を深めるにはよほどの体力が必要だ。