跳舞猫日録

Life goes on brah!

ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』

ジョナサン・デイトンヴァレリー・ファリスバトル・オブ・ザ・セクシーズ』を観る。なかなか興味深い映画だと思った。映画の画質もあってか、レトロな雰囲気を醸し出すことに成功している。そしてこの映画で語られる時代もまた、ニクソン大統領の時代でありつまりは古き良き時代だったということになる。それを取り違えてしまうと「一体なんのこっちゃ」という解釈になってしまうだろう。私は、最初観た時は「レズビアンという個人的出自と男女のガチンコ勝負と、どっちを描きたいのだろう」と不思議に思ってしまったのだった。だが、この「レズビアン」と「男女のガチンコ勝負」はアウフヘーベン的に「止揚」されてひとつの主張へと繋がっていくのである。それは確かに見事だと思った。


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女性のテニス選手で、ビリー・ジーン・キングという人物が居た。彼女は連戦連勝の女傑だったのだが、女性のテニス選手は男よりも劣る(が故に、賞金や待遇が男より格下でも当然)と見做される風潮に異を唱え歯向かうことになる。自分たちだけのトーナメントを作ろうと動く彼女のところに、ボビー・リッグスという「殿堂入り」を果たした男のテニス選手が電話をしてくる。ぜひ自分と勝負/対決して欲しい、というのが骨子だった。かたや女傑、こなた「殿堂入り」。話題を呼ぶ対決だがビリーはなかなか首を縦に振らない。自らのレズビアニズムに翻弄されつつ、彼女は迷い続ける。だが、やがて彼女は決意する……これがプロットである。

「もっとデーハーに盛り上げてもいいんじゃないかな……」と思ったのだった。エキシビジョン・マッチで、つまり男性優位社会の男がわざわざ女を相手にしてやると言わんばかりの「見世物」の興行なのだからそのキワモノ的な扱いを今の目線から批判的に描くか、もしくはもっとユーモラスに描くかすればよかったのではないかと。具体的には『ロッキー』を思い出して欲しい。あれもシルベスター・スタローンという場末のジムのボクサーに対して全米チャンピオンがわざわざ「見世物」の試合を仕掛け、瓢箪から駒的な展開になる話だった。なにを言いたいかというと、もっとギミックをふんだんに使えばよかったのにということだ。

そして、そのような男性優位社会にあぐらをかく男と(ボビー・リッグスがそんなに単純なパーソナリティの持ち主だったのかは意見が割れると思うが)、彼に歯向かうビリー・ジーン・キングの戦いを描くにあたってビリーがレズビアンだったことを描くのは果たして得策だったのかという話も成り立つと思う。レズビアンとして、つまり時代が許さない禁断の恋(?)に身を焦がすビリーの悲恋はパーソナル/個人的なものであり、男と女のガチンコ勝負が意味するパブリックなものではない。つまり、そんなパートを深く描かなくてもガチンコ勝負は描けるのではないかと思ったのである。

しかし、最後まで観終えて私は考え方を変えた。要はこの映画はビリーという個人が生きづらさを背負いながら――それは「女性」という性を背負ってしまったことと、その中でも更に「レズビアン」であるというマイノリティ性を背負ってしまうことの二重の生きづらさとして現れるだろう――それでも彼女らしさを貫こうとする時、テニスコートの中が彼女が自分自身を発揮/発露できる場所だった、ということではないかなと思ったのだった。映画のエンディングは明るい。それは彼女が試合で活躍したからだけではなく、彼女の生き方が認められる時代がそこまで来ていることが(私たちにも実感を伴って)わかるエンディングになっていたからだ。

なのだけれど、でもテニスの試合の運ばせ方にしても「もう少し盛り上げてもいいような……」と思ってしまった。というか、試合に割かれる時間が短すぎるのだ。ならばそれこそ『ロッキー』のようにトレーニングを通して成長する彼女の姿を表現/表象するなり、先にも書いたけれどメディアの狂想曲ぶりを描写するなり、やりようはあったはず。それがないのでなんだか地味な映画のように映ったのだった。駄作、とは言わない。傑作になりそこねた惜しい映画、というのが正当な評価のように思った。エマ・ストーンの戦略的な野暮ったさはなかなかいいなとは思ったのだけれど……。