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ミミ・レダー『ビリーブ 未来への大逆転』

ミミ・レダー『ビリーブ 未来への大逆転』を観る。人間の可能性とはなんだろう、と(柄にもなく)考えてしまった。自分なら自分の中にどんな力が眠っている、と言えるのだろう……この映画は法廷劇をキモに据えたヒューマン・ドラマである。故に、丁々発止の論戦/心理劇が展開される法廷劇の旨味と、彼らの生き様を描くドラマの旨味が溶け合ったつくりとなっている。アクションが起こらないという意味で(派手なキスシーンなどの色気がないこともあって)地味ではある。だが、また改めて書くが上述した人間の可能性の不思議について考えさせる、侮れない映画であると思った。


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ルース・ギンズバーグ泣く子も黙るハーバードに入学した才媛。だが、女性だからという理由で一段低く見られざるを得ない。教室で質問しようとしてもなかなか指されなかったり、あるいは建物に女性用トイレがなかったり、なにかとイヤミを言われたり……そんな彼女を支える(今の目から見ても充分に「進んで」いる)マーティンとの間に授かった子どもを育てながら彼女は法律を勉強していた。マーティンも学生だったのだが精巣ガンで倒れたことで、ルースは彼の分まで講義に出てノートを取り勉強を重ねる。天才性と不屈の闘志に満ちた彼女は、ある日とある案件から性差別を法的に覆せる可能性を見つけてしまう。

実を言うと最初のうちはやや不満というか、物足りないものを感じた。なぜルースが学び続け、常識に逆らい続けるのか今ひとつわからなかったからだ。むろん彼女はユダヤ系の女性というマイノリティなわけだが、それだけが原因だとは受け取りにくい(そういう人は彼女だけではないだろう)。しかし、映画の中で彼女が子どもの頃母親と議論をして育ったというところでピンときた。彼女はその母親を通して、物事を批判的に捉えあるいは(矛盾のある言い方になるが)「あるがまま」に見る力を養ったと言えるのではないか。だからこそ娘に対して厳しく躾けたのではないだろうか。

その娘は果たして、街頭でセクハラそのものの言葉を浴びせられる。そばに居た母親は無視することを薦めるが、「無視しちゃダメ」と反論し男に言い返す。ここで見えるのは、ルースの反骨精神が娘に見事に伝わったという事実である。親から子へ、その子から更に子へ。こうしてスピリットは受け継がれていく。それが見えたことでこの映画の見通しはクリアになり、私もルースが家族と一緒に歩む紆余曲折/試行錯誤を見守れるようになったと思う。このあたりがややさり気なさすぎるというか、もっと回想シーンを挟んでもよかったのにと思えたところがこの映画の辛いところかな、とは思う。いや、玉に瑕ではあるのだが。

ルースが挑む判例は、母親の介護をする男が控除の対象から外されているというものだった。男なら働いて稼げるだろう、という古い偏見/常識からくるものだ。これはそのまま男性差別でもある。「性差別は男をも苦しめている」というような台詞もこの映画では登場するが、女性であるルースがそうした自身のアイデンティティを越えたリベラルな視点を持ち、本質を見抜いたことは「慧眼」と言える。今なおこの偏見/常識は「女性は家族を守る立場」というような言い回しで残っているかもしれないことを思えばなおさらである。こんな人が実在したのか、と唸らされてしまった。

だが、この映画が本当に感動的な点はルースが弁論の過程で、判決に登場する介護に負われる男性が本当に自分らしく生きられる可能性を発揮できる社会が到来するよう説いたところだと思う。返す刀で彼女が意見を訴える政府に対しても時代に応じて変わること、変わりうるからこそ彼らがより幸せになりうることを説いたことも見逃せない。変われるからこそ、可能性を発揮できるチャンスが生まれる。そんな人間本来の可能性をポジティブに説いたところにこの映画の凄みがあると思った。地味な法廷劇を通して、言葉巧みにそんな可能性を説いた感動はなかなかユニークなものだった。