是枝裕和『誰も知らない』を観る。システムから外れてしまう、とはどういうことなのかなと考えてしまった。当たり前の話をするが、私なら私はひとりで生きているわけではない。電気ガス水道といったインフラが支えられており、なおかつ住む場所を契約関係を成り立たせて確保しており、お金というツールを使って社会的な経済活動を行って生きている。そこから(完全というわけではないにせよ)外れて、例えばひきこもりになってしまうとはどういうことか。私もニートだった時期があるのでなおのこと、この映画が描くような世間から「外れた」生活というものがありうることに思いを馳せてしまったのだった。
シングルマザーの母親と4人の子どもたちが居る。母親は長男の明に、自分が居ない間弟たちの世話をするように頼む。母親は(映画では明示的に語られるわけではないが)どうやら新しい男を作り、その男との生活にうつつを抜かしているようなのだ。果たして母親は金を渡して失踪/蒸発する。明は弟妹を保護する兄として、そして父的な存在として買い物や料理をこなす。だが、明の年齢は12歳。彼にも学校に行きたい、友だちと遊んだり野球をしたいという夢があった。彼らの当て所もない生活は続く。母親から音沙汰もなく、他にどんな大人たちも介在しないまさに「誰も知らない」子どもたちの世界が繰り広げられる……。
そこまで堕ちているのに、悲惨な目に遭っているのになぜ……という言葉が浮かばなくもない。例えば冒頭で映される明はボロボロになったTシャツを着ており、風呂にもロクに入っていないだろう垢だらけの爪が痛
ましい。風呂に入らないのはもちろんズボラだからではなくて、金が尽きて水道やガスを止められてしまったから。大家に払う金もなくなり大家が覗きに来る事態にもなるが彼らの苦しい生活に最終的にメスが入る気配はない。「誰も知らない」子どもたちの地獄のような生活……だがその生活にはある種の魔性が存在してもいるみたいなのだ。だからクセモノであるとも言える。
なぜ児童相談所や警察に相談しないのか、と問われた明はそうしてしまうと4人で暮らしていけなくなるからだ、と答える(「5人」ではないところが細かいと思ったのだが、これは私の聞き違いかもしれない)。家族とは逆に言えば、そうして悲惨な目に遭っても守るべき大元の絆なのだ。このテーマは是枝裕和が形を変えて『海街diary』『海よりもまだ深く』『万引き家族』といった映画で追求してきたものである。家族の持つ魔性……故に人は犯罪に手を染め、超えてはならない一線を踏み外す。そんな歯車が狂う様子を実に巧く描いている。ディテールの細かさに注意したいと思った。
ディテールということで言えば、この映画は(もちろん他の是枝作品も概ねそうなのだが)実に細かい。明のほのかな希望である「野球をしたい」という思いはグローブを買うためにお年玉を貯めたり公園でひとり野球めいた遊びに興じるところに出ている(からこそ、寺島進が指導する野球チームで野球をするシーンが活きる)。妹が、自分のもらったお年玉ののし袋に書かれている自分の名前を過去にもらったのし袋と比較して、それは母親からもらったものではありえないことを見抜くところも流石だ。コンビニの新人店員を指導する場面も見落とせない(彼女が就活マニュアルを読んでいるところに注目。これだけで彼女のキャラが立ち上がる!)。
とはいえ、そんなに高く評価できないのは私の弱さなのかもしれない。長い割に丁寧に描きすぎてどこか「くどい」と思ってしまうのと、「いくらなんでもそこまで『誰も知らない』生活が続くわけないでしょ」と私の中のYOUがツッコミを入れてしまうからでもあるのだが、裏を返せばそれだけこの映画が放つ家族の魔性を認めたくないからなのかもしれない。ここまで悲惨な目に遭っても、それを覆しうるだけの楽しい日々をもたらしてくれるなにかが家族関係には存在する……なんだか「戦争もまた楽し」みたいなロジックになるので注意が必要ではある。なかなか剣呑だ。