跳舞猫日録

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キム・ドヨン『82年生まれ、キム・ジヨン』

キム・ドヨン『82年生まれ、キム・ジヨン』を観る。実を言うと(隠すつもりもないのだけれど)、私は独り言を言う癖がある。発達障害と関係があるらしいのだが、この独り言というやつは面白くて時折「オレはこんなこと考えてたのか!」というようなことが言葉として出てくる(田中小実昌の卓抜な比喩を使えば、それこそ「ポロポロ」こぼれ落ちる)。でも、この独り言を禁じてしまうことはできない。やってみようとしたこともあったが、言葉を溜め込んでしまうともっとこの悪癖がこじれそうな予感がしたので迷惑さえかけてなければいいかと居直ることにしたのだった。それに、この「ポロポロ」のおかげで自分はひとりでブレストができているようなものなので、止めてしまうと生産がガタ落ちするのである。


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『82年生まれ、キム・ジヨン』は、ものすごく事務的に言ってしまえばよくある「処女作を作家が書くまでに至った事の次第」を描いたものである。「私が私になるまで」と言ってもいい。手垢がついたストーリー、と言ってしまえばそれまで。だが、この話はそんな風に舐めてかかると火傷を負う類のものであると観終えて感じさせられた。女性であり、女性の性を自己決定で選んで生きる存在の生きづらさを描いたストーリーなのだけれど、そんな存在になったことも憧れたこともない野郎の私でさえも「これは凄い」と襟を正して向き合わざるをえない「リアル」が描かれているように思われたのだった。

では、冒頭の独り言の話とこの映画とどこで繋がるのかという話なのだけれど……スジを粗略すれば、キム・ジヨンという主人公の半生を綴ったような話である。家族は彼女の他にはそこそこ大手の会社に務める誠実な旦那とひとりの女の子。幸せなはずだったのだが、実態は(日本でも珍しくないが)旦那は会社のことで大忙しで彼女がワンオペ状態で育児をしなければならないという日常を送っていたのだった。ある日、彼女が突然言葉遣いを改めて奇矯なことを喋りだす。それは、彼女の祖母が乗り移ったかのような行動であり、旦那は精神科を訪れるが「本人が来ること」が大事と諭される。そんな話である。

この二重人格について、映画は「なぜそんな状態になったのか?」「どうやって治療するのか?」と治癒することを主眼に置いたストーリーテリングで広がっていくわけではない。その代わり、そんな彼女が誕生してしまった半生が丁寧に語られる。子どもの頃から親の期待を背負わされて、物心ついたら女性性を持つ存在として変質者に付け狙われ、就職したらしたでいつ結婚して辞めてしまうかわからない頼りにならない存在として扱われ、セクハラにも遭う。そんな生きづらさがこれでもかと盛り込まれるのである。この細かさは個人的には金井美恵子の小説を想起させられる。

つまり、暗に(あからさまに?)この映画は彼女の二重人格はそうした韓国の男性社会(および、その男性社会の規範を内面化してしまった保守的な女性たち)が生み出したのだと告発しているかのような、そんな印象を受けるのである。そう考えてみるとこの映画のキム・ジヨンは至極真っ当な存在である、とも言える。生きることが苦しいなら、その苦しさをまともに生きられないなら、どこかで壊れるしかないからだ(……という理屈で私も自分の独り言を正当化したかったのだった)。それがなぜ祖母の人格なのか。この映画でそれが説得的に描かれているとは言い難い。そこが難であると思った。

だが、祖母とは常に家族において最高の地位にある存在であり、私たちを守ってくれる存在のひとりではなかっただろうか。そう考えれば、自分を守ってくれる存在を自分の中に住まわせ、それをして語らせるキム・ジヨンという人の繊細さが浮き彫りになってくる。だからこそ、彼女が真に自分の病と向き合い自分のことを小説として書き始めたところが感動を呼ぶのだろう。彼女は祖母の力を借りず「82年生まれ」という1個のアイデンティティを持つ「キム・ジヨン」として語ることを始めたからだ。女性だけが生きづらいわけじゃない、と逆ギレする前にこの生きづらさをしかと見届けておきたいと思った私なのであった。