跳舞猫日録

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ホン・サンス『夜の浜辺でひとり』

ホン・サンス夜の浜辺でひとり』を観る。個人的にあまり積極的に使いたくない言葉として「メンヘラ」という言葉がある。私自身精神科通いを続けている身であり、メンタルをこじらせている自覚があるのでこの蔑称(場合によっては自虐的に当事者が使うこともあるのだが)は嫌悪感を感じるのだ。だが、この言葉が人口に膾炙する理由もわかる気がする。精神疾患というものを「重く」捉えるのではなく、「軽く」捉えて「消費」したいという気持ちは私も無縁ではないからだ。世評の高いホン・サンスの映画を観るのはこれが初めてだったのだけれど、そんな「メンヘラ」について考えさせられる映画だった。


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さて、『夜の浜辺でひとり』を観て思ったのは「ひとりよがり」だな、という印象だった。ストーリーも決してわかりやすくない。いや、難解というのとは少し違う。不親切というか、こちらに状況がどうなっており誰がどんなことを考えているのか伝えきれていないきらいがあったのだ。つまり言いたいことが整理されていない状態で撮られた映画、ということになろうか。それ故にあらすじを整理するのが難しい。なにやらひとりの女性が居て、彼女が男に惚れて、そして傷心を背負ってやり直すことを決意する話……らしきものであることは感じ取れる。では、この映画から読み取れるものはなんだろう。

思ったのは、この映画が極めてストレートに「恋」とはなにかを捉えようとしているという印象だった。「ひとりよがり」と書いたが、それは美徳として「誠実さ」「愚直さ」を備えているということでもある。頭だけでひねり出した映画ではこうは行かないだろう、という生々しさが感じ取れるのである。彼らは「恋」について、「愛する資格」について語る。私たちには、あるいはあなたには人を「愛する資格」があるのか……しかしこれは変ではないか。簡単な話として、私たちはいちいち自分に「愛する資格」があるか、なんてことを問うたりしないからである。

人は、愛する時に自覚することなく、つまり「さあ、これから人を愛そう」などと思ったりすることなく「愛」するものである。それは生きることが「さあ、これから生きよう」と思ったりすることなく「生きる」ことであるのと同義である(仮に「さあ、これから生きよう」と思うことが生を活き活きさせるものになるとするなら、それは「生きている」という事実を「再確認」しただけに過ぎない)。しかしホン・サンスの登場人物たちは「愛する資格」が自分たちにあるかどうか議論する。これは、取りも直さず彼らが「資格」がなければ人を愛してはいけないと考えていることを意味する。

「資格」がなければ人を愛せない……そのようにして自分を/他人を厳しく断罪し、価値を過度に見出そうとする。そして、死への憧れを口にする。そのような抽象的に人間を断罪する態度が、私には冒頭に挙げた「メンヘラ」のそれに似ているように思われてならないのである。そう考えてみれば、私小説的と言われるこの映画(つまり、この映画の「監督」がホン・サンス自身である、という構造)でホン・サンスは自らの生きづらさを大写しにしたのだ、と考えることができる。いや、大発見でもなんでもなくそんなことは映画界でありふれたことであろう。ただその臆面もない「大写し」の「ひとりよがり」をどう評価するかは人それぞれではあるのも確かだろう。

だが、この「ひとりよがり」な「大写し」が同時にキム・ミニという女優を借りてチャーミングに映し出されるところに監督の技巧を見たのもまた確かだった。つまり、自分の写したい事柄(この場合はストーリーではなくメッセージということになるだろうが)を効果的にどう映したらいいかということには自覚的だ、ということになる。と考えれば、このホン・サンスという監督、太宰治にも似た資質を備えているのかもしれない。食わせ者というか、侮れない人間であるというか。この監督の世界をもっと追いかけてみたくなった。さて、次はなにを観たらいいだろうか。