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ミヒャエル・ハネケ『ハッピーエンド』

ミヒャエル・ハネケ『ハッピーエンド』を観る。この映画を観ていて、自分自身のことを思い出した。例えば父親が仕事の合間に暇を潰すべく買ったのだろう菊地秀行の官能小説や週刊誌を読んでしまった思い出、あるいは母親の若い頃(つまり、私をまだ授かっていない頃)の写真を観てしまった思い出が蘇ってきたのである。私にとって父親や母親は、多少は理不尽なことも言うし時には反抗期に憎むべき対象になったこともあったが、基本的には尊敬する相手である。そんな父親や母親にも「(私と関わりのない)人生」というものがあること、故に普通の人間であることに戸惑いを抱いてしまったのだ。


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ハネケの『ハッピーエンド』を観ると、そうした子どもの頃に垣間見た大人の世界の秘密とそれ故に傷ついた子ども心というものが自分の中に生々しい記憶として残っていることを思い出させられる。ハネケはストーリーを律儀に描く作家ではない。この映画でもどこへ向かいたいのか敢えて曖昧にした運びのストーリー展開でこちらを酔わせる。そこで見えてくるのは、老人性痴呆の疑いが観られる祖父とその娘にしてやり手の社長である母、彼女の言いなりになるしかない情けない息子と13歳でありながら既に世界に違和感を抱き生きづらさを抱えている主人公である(彼女が『I☆TOKYO』というTシャツを着ていることに注意されたい。このTシャツは日本で起きたとある女の子が犯した犯罪へのリファレンス/言及であるという)。

綺麗に見える家でも少し観方を変えればゴキブリやネズミがゾロゾロ出てくる巣であるように、この映画も洗練されたタッチで描かれた白人たちばかりの世界で(その批判をあらかじめ読むように黒人を配置しているところもハネケらしいが)見えてくるのは歪んだ性愛/エロスやあるいは死への欲動/タナトスだ。チャットで倒錯的なセックスに耽る主人公の父親、自分が痴呆を抱えていることに絶望し自殺を試みる祖父、そして母親の薬を盗んでクラスメイトに飲ませたことを告白する主人公。いずれも見事に歪んでいる。だが、これでこそハネケワールドではないだろうか。『ピアニスト』の主人公が自慰に耽る場面を連想させる。

歪んだ性愛や死を夢見る人々の話は、しかしどこへも行かない。ネタを割るのは慎むが、必ずしもこの映画のタイトル通りにはいかないのだ。いや、行っているとも言えるのかもしれないが……どうにも曖昧にしか描きようがない。ハネケは才人であることくらいは知っているが、面白いどころの騒ぎではない殺人事件に『ファニーゲーム』と名付けたしたたかさを持ち合わせている男である。このタイトルも深く読むことができるだろう。私はそこまで読めず、このエンディングは一見するとハネケが日和ったようにも感じたが同時に「これが期待通りのハネケですよね?」と鷹揚に構えた態度をも幻視してしまった。

それにしても、家族とはなんだろう。私たちはよほどのことがない限り「家族」の中に位置づけられる。血の繋がった家族でなくても「疑似家族」の中で育つ(大人が誰一人赤ちゃんを育てないということは考えにくいので、育てる存在が擬似的に「父親」ないし「母親」の役割を演じることになる)。それ故に家族は違った世代の人々の存在が交錯する一組織であると言える。故にバラバラであって実は当たり前なのだ。この『ハッピーエンド』の家族も、愛や金といった要素を捨ててしまえばそれぞれてんでバラバラなカオスを生きていると言える。だが、それを直ちに現代人の絶望と呼ぶのは控えよう。

ハネケはそれにしても、なぜここまで歪むのだろう……と書いて、では「歪んでない」「正常な」関係とはなんだろう、とも思ってしまった。私たちが最大公約数的な理解として「ハッピーエンド」と呼ぶものだって、実はとある人間からすればバッドエンドなのかもしれない。エンドはエンドであり、それを「ハッピーエンド」と呼ぶかそうでないか誰が決めるというのか。だとすれば、私たちは自分の主観から出られない以上この狂った映画に登場する狂った価値観/倫理観をどこまでも他人事としか理解できず、故にこの映画がなぜ「ハッピーエンド」と呼ばれるかわからないまま映画館を去りあるいは停止ボタンを押す……それこそがしかし、正常も異常も超えた虚無的な世界のあり方ではないだろうか。