跳舞猫日録

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マイク・ミルズ『人生はビギナーズ』

マイク・ミルズ人生はビギナーズ』を観る。観ていて、そんなに深刻な話というわけではないのだけれど「ウェルメイド」と呼ぶにはややもたついている印象があったので、これは自伝的な映画ではないかと思った。あとになって調べてみると確かに経験を元に描いた映画だということなので、私の当てずっぽうも少しは信頼してもいいのかもしれないと思ったのだった。なので調子ぶっこいてもっと当てずっぽうを言うと、この映画からはウディ・アレンの作法を感じた。カメラワークなどのテクニカルな面ではなく、監督の思考のスタイルのあり方が似ているかなと思ったのだった。


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登場する人物はいずれもどこか歪んでいる。というか、屈折している。38歳にして独身で、漫画(カトゥーン)を描くのが大好きでそれ故に女遊びとは無縁な主人公。その父で、ガン宣告を受けているが実はゲイだったことをカミングアウトした老人。そして、主人公の恋人となるフランス語と英語のバイリンガルの女性。そこに、既に亡くなっているので思い出の中にのみ登場する主人公の母も登場して物語が豊かなカオスを生み出す。彼らはそれぞれ「ビギナーズ」。つまり、主人公は恋の「ビギナーズ」であり父もゲイとしての生活の「ビギナーズ」なのだ。彼らの初々しい日々が綴られる。

こうして観ていると、繰り返しになるのだけれど頭でひねり出したような映画にはない生々しさがある。リアリティと言ってもいい。ゲイを導入する際もエキセントリックな側面を強調せず、等身大の彼らを描く。恋模様も中年男のそれだからといってデーハーに持っていくでもなく、地味ではあるが微笑ましいものとして演出され描かれる。悪く言えばその分(メロ)ドラマティックな側面がないということでもあるので、流石に平板に感じられてキツかったこともまた確かだった。だが、この平板さこそがリアルなのだと言われれば黙ってしまうしかない。これは好みの問題だろう。

マイク・ミルズの映画は『20センチュリー・ウーマン』くらいしか観ていないのだけれど、あの映画とこの映画の共通項として思いつくのは「親世代」と「子世代」の分断をリアルに描いているところだろう。単なる年齢の差だけに留まらず、それがどういう「分断」を生み出しうるか丁寧に描いていると思ったのだ。子どもからすればゲイだと言い出したり顰蹙を買いかねない言葉で自分のガンをユーモラスに語ろうとしたりする父親は、時に目の上のたんこぶかもしれない。だが、そんな親に子はしっかり寄り添う。だからふたりの関係が微笑ましいものとして映るのだった。

寄り添う、と書いた。つまり対立し、決裂しないわけだ。自分と価値観の異なる他者を尊重し、融和的に歩み寄ろうとする態度――これこそが「リベラル」ではなかろうか。そして、そのような「リベラル」の作法が知性を備えた人間が説くものであるとするなら、この映画の登場人物がそれなりに知性的でスノッブであるのは面白いと言える。この「知性的でスノッブ」な人々のドラマというところに私はウディ・アレンの映画の特徴に似たものを見出してしまったのだった。むろんウディ・アレンとは決定的に異なる要素もあるのだけれど、「リベラル」のスタンスを貫いているところで共通/共闘しているのかな、という。

それにしても、なんと興味深いタイトルだろう。いくつになっても……いや今からでも私たちは「ビギナーズ」としてなにかを始められる。息子に対して自分がゲイなのに妻と結婚していたことを語るのはリスキーだろう(じゃ、妻を愛してなかったのならその間に生まれた自分は? となるのだから)。でも、彼らはそれを単なる諍いの素材として処理せずユーモラスに許容する。『20センチュリー・ウーマン』もそうだったが、これは監督や制作陣から贈られた人生の応援歌ではないだろうか、と思う。マイク・ミルズ、なかなか面白い監督だ。もっと掘り下げてみたい。