スパイク・リー監督『ドゥ・ザ・ライト・シング』を観る。タイトルを直訳すると「正しいことをしろ」となる。これがクセモノだ。当たり前の話をするが、みんながみんな「正しいことをしろ」という言葉に愚直に従えば当然衝突が起こる(例えば死刑反対派と死刑賛成派がそれぞれ「正しいことをしろ」という言葉に忠実になってしまったら、それだけで国が割れてしまう)。だから私たちは時に自分の意に背くことが成されてしまっても、それを時に妥協し受け容れた上でその現実を踏まえて「正しいことを」する柔軟さが必要となる。だが、今の世の中でそのような柔軟さは重視されているだろうか。
『ドゥ・ザ・ライト・シング』は、実にストーリー自体は他愛のないドラマである。ブルックリンの黒人街が舞台なのだが、そこで経営されているイタリア系の移民(と思われる。英語を喋っていることに注目)のピザ屋に対してある日ひとりの黒人青年が、なぜ黒人の写真を壁に飾っていないのか難癖をつける。店主はイタリア人の写真しか飾らないと語るのだが、それに納得がいかない黒人青年は店をボイコットしようと働きかける。やがて事態は店を破壊し尽くす暴動にまで発展する。廃墟にパブリック・エネミーの「ファイト・ザ・パワー」が虚しく鳴り響く。一夜明けて、それぞれはまた生活を始める……これがプロットである。
黒人が絡んだBLMのような動きに対して、私の腰は重かった。いやもともと10代の頃、映画ではなく音楽に夢中だった頃から黒人が絡んだ文化に関しては、総じて私は奥手であったことを認めなくてはならない。ヒップホップもソウル・ミュージックもファンクもそんなに好きではなかったし(そういった音楽から栄養を吸収した渋谷系の音楽は腐るほど聴いていたのに!)、その他のアートに関しても黒人差別がメインとなっているものは毛嫌いしてしまっていた。この消極的な尻込み自体が(無自覚であれ)差別的、と言われてもおかしくないほどだ。だからそんな自分を恥じている。
そんな自分としておっかなびっくりでスパイク・リーのこの逸品を観たのだけれど、今でも通用する問題意識の新鮮さに驚かされてしまった。流石にラジカセを持ち歩きパブリック・エネミーを流す黒人の姿は今では古いだろうが、彼らが自分たちに対して向けられる差別的な目線に敏感であること、そのくせアジア人に対しては差別的心情を隠さないことなどが唸らされるのだ。むろんスパイク・リーがそんな黒人たちを「美化」しているわけではないことくらいは私にもわかる。「美化」していないが、だからこそ「リアル」な耳に痛い存在としてスクリーンに焼き付けているのだと思う。
それにしても、思うのはなぜピザ屋が暴動の対象になってしまったのかということだ。ピザ屋の店主とて、黒人差別的な言動を行ったところは全く描写されない。ただ壁に黒人の写真を貼らなかっただけだ。公的領域と私的領域の混同から来たこの騒ぎは、むろん誰をも幸せにしないものだ。やがて暴動でビザ屋は一夜のうちに破壊され燃え尽きてしまう。そんな廃墟に虚しくパブリック・エネミーの「ファイト・ザ・パワー(権力と戦え)」が鳴り響く。この騒ぎに権力など登場せず、ただ「弱者たち」の小競り合いで終わってしまっていることを思えば特に。それをごまかさずに描いたスパイク・リーを始めとする制作陣は只者ではないと思った。
だが、そう好意的に評価したいと思う反面この映画のそのメインプロットが必ずしも骨太に一本線を貫かれていると言いにくいのも確か。女性のエロスや憎めない悪党たちを描いており、それも黒人ないしはストリートのリアルだと反論されるのかもしれないがそれらが贅肉としてしか成立していない印象を受けるのだ。もっと引き締まった映画にすることもできただろう。監督はきっと、才気が走るが故におっちょこちょいなところがあるのではないか。そう思ってみると微笑ましい作品であることは確かだ。だが、この鮮度の落ちなさは決してナメてかかってはいけないだろう。迂闊に触れると火傷する類の映画と見た。