その後、イオンにいつも通りに入ってそこであれこれ朝活の一環として考えごと。今日はマイケル・サンデル『実力も運のうち』をしばし再読してしまったのだけれど、なんでも「飛ばしすぎ」「熱くなりすぎ」というのはよくないもので脳がガス欠かエンストを起こしてしまった(もちろん、この本の内容は実に啓発的な・刺激的なものであることは言うまでもない)。だから読書を中断してあれこれスマートフォンをタップしてTwitterを見たり、ベックやビースティ・ボーイズなんかの90年代の音楽(いまの人からすれば「懐メロ」だろう)をダラダラ聴いて午前のひと時を過ごした。
さっきも書いたけれど、サンデルの本は実に刺激的でこのぼく自身の人生を振り返らせる契機をはらんでいるというか、我が身を省みて過去の酷かった時代から未来に向けて視野を広げる働きがあるとも思った。いまのぼくが置かれている状況(たとえば、早稲田というなんだかよくわからない・謎めいた大学を出たあといまの会社に入って、発達障害者とわかって英語を学びはじめて、などなど)がぼく自身が行った努力というか骨折り損というかそんな「自助」だけに由来するものではなく外部の要因によって救われ・助けられた「他力」の側面もあるという視座をくれたのは収穫と思う。実に「使える」、もしくは「訴えかけてくる」1冊で抽象的な空理空論とは違った響きを帯びた、知性のひらめきを感じさせる1冊とさえ思う。
その後、昼食を摂ってからLINEのオープンチャットの英会話関係のグループである友だちがぼくの英語の投稿にアンサーをくれているのを読んだ。言語とアイデンティティの関係について触れたもので、日記でも過去に書いたとおりぼくにとっては英語は「道具(ツール)」である。自分自身を公の場で表現するためのものであって、アイデンティティの一環を成すものとして過度に扱われるべきではないとも思う(が、アイデンティティの一環に使う言語がありうるという考え方――アメリカンジョークを話していると陽気になったり人間性が変わったりするのを感じる、というようなかたちで――にも説得力を感じるので自分の中ではまだ整理できていない)。その友だちはぼくの意見に同意してくれたので、それがうれしかった。いくぶんかは無気力感というか怠惰な気持ちが吹っ飛んだとも思った。仕事に入る。
仕事の合間の休憩時間になり、そこでTwitterで友だちが議論というかしょうもない小競り合いに巻き込まれているのを見る。いや、その友だちは友だちでぼくはぼくであってなんら関係はないことだが、あるいはそれに加えてクインシー・ジョーンズの訃報を知ってしまったこともあってか気分が乱されてしまう。ああ、なんとも未熟な我が精神よ。今年はグループホームの管理者・副管理者の方々から自分と世界との間に適切な「バウンダリー(境界線)」を引くことを教わった。こんかいのこともそうして自分を守るため――もちろん一方でクインシー・ジョーンズは偉大であることを疑うつもりはないにしても――あらためて自分を律しそのバウンダリーを引き直さないといけないと思ったりした。