この作品は記憶を喪失した元宇宙飛行士が街をさまよい、そこにおいてさまざまな人たちと出会うことで自分を再発見していくというのが主なスジだ(とぼくは解釈している)。ゆえに、さまざまな位相・切り口から読める作品ではなかろうかとも思う。来たるべき未来を明示したSFとして読むこともできるだろう(だが、ぼくの私的な解釈ではこれは「キャッチー」で「尖った」イメージの乱舞で読ませるのではなく、むしろ宇宙や世界の実像を静謐に描写・明示することで読み手であるこちらの内的世界をもごっそり書き変えてしまう力に満ちていると思う)。あるいはそんな難しいことを考えずとも実に人間臭いドラマ(悪く言えば「メロドラマ」)としても読める(それこそ上に書いた『ブレードランナー』的なやや汗臭さの「匂う」ドラマとして)。もしくはこの作品をJ・G・バラードの作品群なんかの隣に置いて批評する個ともできるかもしれない。さながら「現代人の心理はどう科学の発展によって変貌したか」を問う逸品として。
読み終えたあとも続いた目まいを楽しみつつ(いや、決して心地よかったり安心感を感じられたりしたものではなかったが、でも過剰に不快とも思えず「これは傑作の証だ」という思いがますます強まったのだった)、そして思うにこの作品は1990年代半ばに刊行されたものらしい。グローバルなコンピューターをつなぐネットワークはあっても、それがいまのような市民権を得た「インターネット」としてはまだ出回ってなかったか、出回って間がなかったかの頃ではなかっただろうか。つまりはまだ新しいアイテムの域を出なかった頃。したがってこの作品ではインターネットの影や形を探すことはむずかしい。だが、個人的な読解の印象を語るならそんなふうな側面だけをもって「消え去るべき」「時代遅れとなった」作品とはもちろん言わない。むしろ、ここで描かれている生々しい世界像をぼくはたしかに重く受け取りたいと思う。本気で書いている。
世界のあらゆるディテール・あらゆる細部・暗部はいまや白日のもとに晒されて秘密なんてなくなってしまったかのようだ。謎めいたものなどなにもない……でも、本やドキュメンタリーなどでどんなに頭でっかちに知識を仕入れたとしても、宇宙や世界の「ナマの」実像に直截的に触れるとやはり体感として凄みを感じ、畏怖すら覚える。原始人が炎を見て思ったかもしれない恐怖感と似たものを体感するかも、というか。ヴァーチャル(もしくはブッキッシュ)な知識は肉感的な、この肉と魂を通じて得た「ナマの」理解とは違う(優劣をいちがいにつけるのはむずかしいにせよ)。なるほど、冷笑的に言えばこの作品はたとえば立花隆の宇宙に関するルポルタージュやあまたの未来予想(イマジネーション)の集成であり、つまりはついにその枠組みを出られていないとも言えそうだ。だが、ぼくはこの作品からたしかに世界の神秘・崇高な実像を垣間見たと信じる。
いま、この作品における一文がいまだ心の中に響き渡るのを感じる。「行くところを決めるのは自分じゃない」。個人の人生において、あるいは人類の未来において。この世界観をそのまま無批判に受け容れる愚は慎みたいが、だが自分自身の自力に関する過信・盲信を諌めるメッセージとして謙虚に受け取れないかと、いま一度言い聞かせる。