跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/09/10 BGM: R.E.M. - Nightswimming

ぼくの生活は振り返ってみるに、実にたくさんの英語学習の機会を内包していることに気づく。いや、やっていることといえばそんなにだいそれたことではありえなくてただ英語でチャットしたり、日記を英語と日本語の2か国語で書いてみたり毎朝のZoomでのミーティングなどで英語で会話を楽しむことに尽きるのだけど、それでもそんなことにうつつを抜かす日々の中でふと自分に問いかけてしまう。「どうしてそんなふうに英語を披瀝することができるんだ? おまえはおまえのヘタクソな英語を披露することにためらいもはにかみも感じないのか?」。つまり、ぼくは俗に言う外交的で社交的な人間だからそんなことができるのか、それとも活動的な人間ということなんだろうか……ぼくの回想録を書くことをあれこれ考えているとふと、こうした英語でのアクティビティ(2か国語の日記執筆、英語のミーティングや世界にいる友だちとのおしゃべりなどなど)についても必然的に触れる必要があるだろうということで、そうした問いに最終的には立ち返らざるをえないのだった。

これまでこんなふうに書きつけてきた日記でもたびたび触れてきたように、過去ぼくはそれはもうこっぴどくいじめにとっ捕まって死ぬほど惨めったらしい・つらい目に遭った(こんな自閉症の性格が原因なんだろう、といまでは納得もするものの)。だから過去にぼくはまったくもって外界から心を閉ざして自分を完全に守ろうとした。ウィルス感染のおそれのある環境で行われる「隔離政策」と同じく、だ(もちろんこうした表現に問題があることくらいはぼくにだってわかる。いじめっ子とウィルスは一緒ではありえない。だが、あの日々を思うとこんな「暴言」も書きつけたくなる)。いま、ぼくはそれが実にアホみたいな試みだったと身を以て理解する。外界から完全に閉じて生きることなど誰にもできやしないし、あるいはそんな生き方をするべきではない。だが、そうして認められるのも「いま」だからこそ。当時はそんなふうな「隔離政策」を自分に課しいじめとか無理解とかに苦しむ中で自分の中のテリトリーを守るのに汲々とせざるをえなかったのだ。それをも間違っていると言われたらどうしようもない(と居直ってしまう)。

だが、そんなトラウマてんこ盛りの時期のことを除けばたぶんこのぼくのキャラクターというのは(はしたなくも告白してしまうが)たんにぼくが根っからの「おしゃべり」「さびしんぼう」であり同時にこの発達障害のせいもあってか「多動」な人間なんだろうと思う。そういうシンプルな事情ゆえなんだろう、と。だからこんな感じでミツバチのように勤勉にというか性懲りもなくというか、多忙に動き回るのだった。そして、ぼくの中には巨大な好奇心のエンジンがあってそれがぼくを突き動かしているんだろうとも思う。だからこんなふうにたらふく本を食い尽くすいきおいで読むんだろうなとも(今日は高橋源一郎高橋源一郎飛ぶ教室』を読んでいた)。そして、ささいな疑問・質問があとからあとからポロポロと湧いてくるのでそれを解決したくなったりする衝動をも感じる。たとえば「おねだり知事」「おねだり疑惑」って英語でなんていうんだろう、なんて。

日本語における伝統的な表現というか決まり文句(クリシェ)として、秋のことを「読書の秋」と表現したりする。それもあってか、今日は読書がはかどった。バーズやサイモン&ガーファンクル、あるいは時代は下ってぼくの好きなバンドであるライラック・タイムといったフォーク・ロック的な音楽をあれこれ聴きつつ仕事終わりの貴重な「じぶん時間」を読書ですごす……というか実はそれこそ時間が空けばあれこれ回想録に本腰を入れて取り掛かったり他にもやりたいことがあったのだが(次の日曜のオフラインでのミーティングの下ごしらえも必要だろう)、実に子どもじみたいいわけをすると「やる気」がこれっぽっちも湧かなかったので今日は思いっきりサボってしまった。ああ! まあそんなこともある。この季節に読むべき本をあれこれ考える。明日、9月11日は忘れがたい「メモリアル・デー」だ。不謹慎に響くだろうが、そんな日にふさわしい本を探す。それがぼくなりのあの事件への対峙の仕方だ、と居直る……それこそゼーバルトを読むべきか、テジュ・コール『オープン・シティ』といった本を読むべきか、冷泉彰彦があの事件について発表した実にすばらしい、いまなお強烈・鮮烈な魅力をたたえたレポート『911 セプテンバーイレブンス』を読み返すべきか。案はあれこれふくらむのだった。