跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/08/17 BGM: SCUDELIA ELECTRO - GOOD BYE NAUTILUS ~さよならノーチラス号~

今日は早番だった。今朝、いつものようにZoomミーティングで英語学習にいそしむ。今日の話題は英国人の大学観について語ったニュースが主となった(なんでも、若い人たちはそうした大学過程を端的に時間のムダと見なしているとかいないとか)。その後、大学のシステムがどうぼくたちにとって有益かあれこれ話し合う。ぼくの場合は、ぼく自身は大学課程を罰当たりにも「レジャー(余暇)」程度にしか思っておらず、その最低4年間の期間とは単に青春を描いた文化が示しがちな絵に描いたハッピーなキャンパスライフを満喫できる期間と思っていたのである。ロマンスであり、飲酒であり、アルバイトやサークル活動といったことだ。

もう少しぼく自身の話をすれば、ぼくはある私学の大学に通うことが出来た(奇跡でも起きたんだろう)。30年ほど前の話で、そこでぼくは英文学、とりわけアメリカ文学を学ぶことをハナから決め込んでいたので迷うことはなかった(いや、当時シェイクスピアもなにもたいした英文学の詩人・作家など読んでいたわけでもなく、これを思うと文字どおり「恥」しか感じられないが)。ぼくは自分がそこまで俗物ではないというか、天狗にはなっていないと信じ込んでスマシていたのだけれど……でも、大学がぼくの人生を死に至るまで決めてしまうという考え方に染まっていたところはあったのかもしれない。その後、就活でつまづきそこからどんどんドロップアウトして長い間呑んだくれの人生を生きてしまうことになる。その頃にぼくは自分が発達障害者であることを知ったのだった。

だけど、当時ぼくにこの世界がこんなふうに変わるなんてことを予見・予知する能力なんてあるわけもなかった。あってたまるか。いまや、ぼくはこの町あるいはこの国が持つある福祉のシステムに乗っかることができてそこでグループホームの利用やジョブコーチとのコミュニケーションなどを利用できている。これもまた奇跡なんだろう。ぼくが属する世代は俗に「さまよえる世代(ロスジェネ)」と呼ばれる。絶望的に見捨てられた世代であり、福祉の援助も追いついてないと。でもぼくは、自分がこのことについて考える際そうした色眼鏡をいったん外して冷静に考える必要があるとも思った。そして信頼できる方々と議論を重ね、慎重に吟味したい。

今日の仕事も終わって、グループホームに戻る。夕食を摂ったあと、木曜に行うミーティングのための資料を作る。学校や塾などで行われる英会話・英語教育のシステムについて、そして日本人がどうそうしたシステムをとらえているかを話せたらいいかなと思う。もちろん、ぼくから見た意見の域を出ることなどないにせよ。大学であれこれとアレン・ギンズバーグをかじったりしていた頃、英語の能力がこんなふうにぼくを助けるとはまったくもって思えなかった。そういうものなんだろう。ぼくは実に近視眼的な発達障害者なので、このことについてもまた、それこそさまざまな複眼的視座からつとめて慎重に考えたいと思った。