そのZoomが終わったあと、グループホームの近くにあるイオンで涼みがてらこの町にお盆休みに帰郷していた友だちと再会する。2人でいろんなことを話し込む。そのうちの1つは、日記でも書いてきたがこの市にある国際交流協会がときおり開いている英会話教室についてだった。その英会話教室は文字どおり初心者からもっと高度なレベルの生徒まで幅広く受け容れており、したがって老若男女が楽しめるクラスと映る。だが、生徒の中にはそうしたクラスを端的に「レベルが低い」と見て通わなくなるなんてこともあるというのだった。
もちろん通うか通わないか、続けるか続けないかは個人の自主判断の問題であり、ぼくがとやかく言うのは文字どおり余計なお世話そのもの。だが、ぼくは自分のレベルがどんなものなのかTOEICも受けたこともなく、したがって客観的な指標を示せないのでいまだわからないが、それでもクラスには通いたいと思っている。授業内容が「一見すると」そんなふうな期待したレベルのものではないかもしれないにしても、それでもそうした場で実際に英語のスピーキングやリスニングの機会を得て経験を積めるのは貴重とも思うのだ。ぼくがそんなクラスに実際に赴いて英語を学び始めたころ(40歳の頃のことで、だから9年前か)、頭の中には読みかじった文法の知識や語彙はあってもそれがぜんぜん言葉にならなかったのだった。ああ!
そうして話し込んだあと、午後になり昼食を摂って警察署に行き免許証の更新を済ませる。グループホームの自室に戻り、林志弦(イム・ジヒョン)『犠牲者意識ナショナリズム』の続きを読み進める。8月15日は日本人にとって忘れがたい終戦記念日。このすさまじい書物を読むことで、ぼくはどうやってさまざまな惨禍(アウシュヴィッツに代表されるホロコーストや慰安婦問題などなど)に向き合うべきか自分なりに考える。1人の日本人として、ぼくはあの戦争をついつい被害者視点から見てしまう。だが、アジアで惨禍をもたらした国の国民の子孫としても見られてしまうのかなとも思う。これらは矛盾しないはずだ。いや、このことについて話すとそれこそもっともっと繊細な議論が必要となろう。ぼくにできることはただひたすらこの本と向き合うことだと思う。