実を言うと、最近になって友だちにオフラインで英会話教室に行って英語を学ぶつもりであることを話したところ、ある友だちが「でも、あんたもう英語うまいよ」と言ってくれたのだった。それが真実かどうかは読者諸賢に委ねたい。でも、少なくともいまぼくは英語を学ぶことで楽しい時間・瞬間を体験できて経験を積み重ねられていると感じられる。そして、そうした学びの試みが大人として成長させてくれていると信じる。
刀祢館のこの本は実に読みごたえあり、日本人が英語学習においてどんなふうにさまざまな困難に立ち往生してしまうかを教えてくれる。たとえば、いま流行りのチャットGPTが進化してポケトークなどの翻訳ツールも精度を上げている。英語で困ったことがあったらそうしたツールに頼れる……それはまことにけっこうなことだとぼくは思うけれど、でもいざ日常生活における英語での雑談(フリートーク)の席で話題に困ったとき、そんなツールが即座に「はい! 今日のお題!」と最適解をはじき出してくれるだろうか(いや、いまのテクノロジーだとそんなふうな「アイスブレイク」的な話題提供の機能もありそうでこわいのだけど)。あるいは、いまなおぼくは「自分のレベルに合ったテキストブック的な英語の教材」を見つけ出すのが下手だという自覚もある。カズオ・イシグロやポール・オースターの英語なら自分に向いていてモチベーションも高まるのかなあ、なんて思うのが関の山だ。
午後になり、メガネショップに行って遅まきながら新しくできたメガネを受け取りお金を払う。その後、グループホームに戻り次の木曜日のプレゼンテーションのための草稿をたたき台として書き始める。最初はどう英語を学んでいるか、ぼくの「邪道」を地で行く学び方をシェアできたらと思った。DiscordやWhatsApp、MeWeなどのツールで友だちを作り学んでいる、といったことだ。でも、書きつけていくうちにその草稿は脱線して日本語でコミュニケーションを続けていくうちにどうぼくが自分なりの「邪道」な語り口・態度をマスターしたかというような話になってしまった。時間もないのでこのまま行こうかと思う。
10代の頃、学生時代はいかにぼくが不器用でトンチンカンな発達障害者だったとはいえ、教科書に載っていることを頭の中にたたき込んだり、あるいは少なくともそこに書いていることがベースになることを踏まえていたり、そうしたことさえわかっていればなんとかなった。「予習・復習」「傾向と対策」をこなすことができたのである。でも、リアルではそんなわけにはいかない。自由闊達に、フリーマインド(自由意志)に基づいて自分の言いたいことを(だが同時に忖度・空気読みもこなしつつではあろうが)言い合う。そんな場でこざかしい「傾向と対策」「戦略」が役に立つわけもない。この簡明にして深遠な事実がわかるまでに時間がかかって苦労した、というようなことを思い出す。でも、いまはぼくの言葉はどう響くだろうか。アイ・キャン・スピーク・イングリッシュ?