ミーティングが終わり、その後本を読んだり英語メモを書いたりするというぼくなりの「朝活」のために近所のイオン詣でを行う。スマートフォンを通して、柄谷行人が自身の半生を振り返ったライフストーリーの断片を読ませてもらう。過去に柄谷は来世があるかどうかといった非常にスピリチュアルな話題に傾倒した時期があったというのだった。それを受けて、今朝のミーティングのトピックのことをいま一度思い出す。今朝の地震のこともそんな謎めいた話題だ。というのは、地震が起こるかどうかなんて(少なくともぼくごときには)予知のしようもないからだ。確率的にどんなに低くとも、起きてしまえばその人にとっては「起こった」のであってもう別の問題に移ってしまっている。でも、ぼくの場合そんな不確実な状況に耐えられないほどメンタルがヤワいのもまた確かである。あるいはこの人生の不確かさそのものにもなかなか耐えられない。
そんなことをしているとclubhouseで面白いミーティングが始まっていたので少しばかり参加する。話題はこの夏らしくホラーアニメについてで、ぼくは古典的な名作アニメ「serial experiments lain」を挙げた。いまなおこのアニメはぼくにとってこのネット社会の怖さ(あるいは人の心の持つ深遠さというか……また見てみないとわからないけれど)を描き切った教科書のような作品だ。他のメンバーが別のアニメ『東京マグニチュード8.0』を挙げた。これは見たことがなく、話を聞く限りでは実にタイムリーなアニメと唸る。その後、グループホームの副管理者の方とお会いしいろいろ話し込む(だが、さすがに書くのは気が引けるような困りごとが中心となってしまったので公表は控えたい)。
午後になり、エアコンの効いたグループホームの自室でジョージ・オーウェルのエッセイ集の文庫本『一杯のおいしい紅茶』を読む。この実に挑発的な本を読みつつ、オーウェルの犀利な観察眼とあたたかい心はつねに庶民にその眼差しを向けていると睨む。オーウェル自身もまた庶民派の1人としてイギリスの料理を楽しんだり文化に和んだりしつつ、市民生活を宝石のように慈しんでいると思った。何点かぼくの意見はオーウェルと相容れないところがあったのだけど、でもこの姿勢には頭が下がってしまう。彼の優しさと批評性はそれこそイギリス映画におけるケン・ローチの姿勢や作品ともぼくの中でつながる。でも、こんなことを考えるのはきっとぼくだけだろうなとも思った。