そこではぼくは他の参加者の方々の熱気に押されてしまいなにも言えなかったが、こうした『マチルダは小さな大天才』のような面白い英文の資料を読むことは、少なくともぼくにとっては語彙(ボキャブラリー)を増やすことにつながると思うので実にありがたい、貴重な体験である(現にこうしてこのロアルド・ダールの作品をたった十数ページ読むことでぼくはイギリス英語の単語を少しばかりだが学べた)。そして、他の文化圏や国々のバックグラウンドをこまかく学ぶことができるとも思う。だからこうした精読の試みはムダではありえない。でも、問題提起をされた方のコメントは真実を突いていてクリティカルだとも思う。どうやってこの生活の中で、英語で会話する機会を取り入れるか。議論は熱くなった……なんだかこの夏の空気さながらだった(いや、真面目に書いています)。
そのミーティングが終わり、昼食を摂ってグループホームに戻る。そこで、clubhouseで他の人たちが英語で会話をしているところを耳にする。最初はその会話を聞くだけ参加(俗に言う「聞き専」)で楽しもうかと思っていたのだけれど、ふと上に書いた午前中の会合で得た疑問について訊かせていただきたくなり飛び入りで参加する。すると、ホストのお二方は温かく迎えてくださってこの不意の乱入者の疑問をいっしょに考え始められた。彼らの意見は、本を読むことと他人と話すことはそれぞれ独立してあるものではない(どっちが上でどっちが下とかいうふうに判断できるもの、あるいは比較対照して済ませられるようなものではない)。むしろインタラクティブというか、日本語で言えば相互につながっていてどちらかを鍛えることがもう片方をも鍛えると考えるのが現実的だということだった。まさに目からウロコの思いで聞かせてもらった。深く感謝したい。
思えばぼくがもっと若くて無知だったころ(つまり、20代や30代のころ)、こんな英会話におけるシンプルな真実をわかっていなかったことをいま思い出し、汗顔の至りだと思う。毎日の堅実な努力の継続こそが効果的にというか、「てきめんに」働くということがわかっちゃいなかったのだった。当時ぼくは「フィーリング」というか「感覚」任せで、言葉をたんねんに理解することよりもフワッとした感じで「通じりゃいいんだ」とうそぶいていたのだった。ああ、なんたる浅はかさか。読んでみた感じではその『マチルダは小さな大天才』は実に面白い本だと思うのだけど、同時に「タフ」というかあなどれない本だとも思う。今朝のこうした読解やそこで体験した議論を振り返ってみると、今日はこの小説のジューシーな、実りある中身に加えて1つの偉大な教訓を得られたとも思ったのだった。