昼になり、昼寝をしてからグループホームの近くにある公園に行ってそこで遅まきながら花見を楽しんだ。公園は人でいっぱいで、とりわけお子さんを連れた家族が目立つ。桜は息を呑むほど美しく、ついつい魅入ってしまい文字通り言葉を失ってしまう。突然、こんなことを思った。100年後、この光景はどうなっているだろう――文字通り(たぶんだけど)そんな未来にはぼくたちは皆亡くなっていてそんな光景を見ることもないだろう。村上春樹もそんなことを『風の歌を聴け』で書いていたのを思い出す。でも、そんなふうに世界を大づかみに・頭でっかちに捉えていては「この」タッチ、「この」感覚を見失うとも思った。「この」感覚とは、つまりここにいてこの生を生きているからこんな美しい桜を味わえ、この春の日を生きられ、この瞬間を味わえるといったことだ。だからこそ貴重なのだ。そんなことを思った。
夕食を摂ったあと、映画『ソーシャル・ネットワーク』のサウンドトラックを聴きながらエドガー・カバナス&エヴァ・イルーズ『ハッピークラシー』を読む。この本は現在の心理学(「ポジティブ心理学」と称されるもの)がどう「幸せ」という概念を扱っているのかを分析している。その説明の手つきは実に尖っていて辛味も効いていて面白い。読みながら思い出したのはジョージ・オーウェル『1984年』だった。両者は(ぼくの解釈にすぎないが)ある恐ろしい仮定について分析していると思う。外部の権威、つまり政府や企業が「幸せ」の意味・定義を決定し始めたらどうなるだろうか。そして、ぼくたちに「幸せ」について、「幸せ」であらねばならない責任を問い始めたら。
この読みが正鵠を射ていたとするなら、この本はこのぼくの「幸福観」を批判していると重く受け取らなければならない。ぼくはぼく自身のメンタル面の調整から「幸せ」になろうと試みている。だが、このことはぼく自身もっと掘り下げて考える必要があるとも思った。