跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/02/14 BGM: John Lennon - (Just Like) Starting Over

両親の住む実家から出て、10時半ごろグループホームにふたたび戻った。ぼくの部屋の本棚でぼくは三島由紀夫の文庫本を見つけたので(『文化防衛論』や『豊饒の海』四部作などだ)、グループホームに持ってくることにした。そして誓った。これらの本を少しずつ「断捨離」というか「手放す」ことにしたい、と。これらの本がもし「安心毛布(つまり、肌身離さず持ち歩く『ライナスの毛布』みたいなもの)」になってしまっているのだとしたら、それが重しとなってしまい自由自在に「逃げる(と、浅田彰の言葉を使ってみる)」ことができなくなる。ゆっくり・あせらず。いまからそれらの本を読みたい。

ガソリンスタンドでガソリンを給油してもらったのだけれど、そこの店員さんがチョコが入った小袋をサービスで渡してくださった。サービスだそうだ。今日はそう、バレンタインデーである……そしてまた、図書館に行き2冊本を借りる。1冊は『鬱の本』という鬱な感情と読書の関係を描いたエッセイのアンソロジーのようだった。ぼくの場合は鬱のときにどんな本を読むだろう。自問自答してみる……。

20代から30代、上に書いた両親の住む実家に住んでいた頃のこと(その頃のぼくときたらまさしく「酔いどれ」「呑んだくれ」の自堕落な生活にふけっていたのだった)。当時本なんてまともに読めるわけもなかった。でもそんなみじめな生活の中で、好奇心から何冊か本を「つまみ読み」したことがあった。そのうちの1冊が日本でも著名な『夜と霧』(V・E・フランクル)である。なんとか読み終え、虚空に向かってぼくも尋ねたものだ。この人生は生きるに値するものだろうか? この人生にイエスと言えるだろうか? そんなことを思い出してしまった。

それはそうと、子どもじみたぼくの悪いクセの1つの病的な「先延ばし癖」のせいでもっとやるべきことが山積みになっていたのだった(ガソリンスタンドで給油というのもそのうちの1つで、伸び伸びになってしまっていたのである)。グーグルで次の日曜日のzoomのミーティングのためにどうルームを開設するか調べないといけない。明日(木曜日)のための資料の続きを仕上げてしまわないといけない。でも、ぼくの脳と来たら発達障害特有のポンコツなものなのでしょっちゅう(というか「性懲りもなく」)忘れる。ノートブックか手帳を買ってスケジュールやタスクのリストを(つまり「TO DOリスト」を)管理すべきだろうか? いま「バレットジャーナル」が気になっているのだけれど……。

夕飯を摂ったあと、断酒会例会に行く。そこで、帰省について体験談を話をした。それで心が軽くなった。グループホームに戻り、中島義道『人生を〈半分〉降りる』を読む。まだまだ執着というか読みたい本があることに我ながらあきれる。鬱な心を癒やすためというのもあり、好奇心を満たすためというのもある。覚えられていたら、近い将来ぼくはサミュエル・ベケットを試してみたいとも思っているのだけれど、そんなことを勢いに任せて書いているせいで三島由紀夫のこともすっかり忘れていることにたったいま気づいてしまった。