その後、図書館に行きそこでナボコフの小説『ベンドシニスター』を借り、そしてグループホームに戻ってランチタイムを過ごし、昼寝をして過ごす。午後、手持ち無沙汰のままその『ベンドシニスター』を読み進める。あらすじを読んだ限りではジョージ・オーウェル『1984』と似たディストピアを描いたもののようだ。平たく言えば全体主義が支配する、自由に生きられない国の物語となるだろうか。聞いたところではナボコフは辛辣にもそのジョージ・オーウェルを口さがなく批判しているようだが、ぼくにとってはオーウェル『1984』はいまもなお(そう、これを書いているこの瞬間にもなお)実に「突き刺さる」「クリティカルな」ものとして受け取れる。この原題の社会と文化を考える際、好みとして受け容れるかどうかはともかく一種のマイルストーンとして避けて通ってはならないとさえ思う(言い換えれば、まさにナボコフがやったように「批判的に読み解く」こと、つまり盲目的に崇拝しすぎないことが大事と思う)。
ディストピアに関して言えば、ぼくが10代の頃(すでに人生や世界がアホくさくて、ぼくにとって悪い冗談として憎悪や嘲笑の対象でしかなかった頃)、そんなディストピアを描いたたぐいのアニメやラノベに触れて慰安を感じたりもしたのだった。でも、そのころはそうしたディストピアが平行世界(パラレルワールド)でありしたがってこの現実社会から離れた、安心して眺められる異世界のできごととして受け取っていた。それは悪いこととは一概には言えないはずだ。でも、40代になってはじめてオーウェル『1984』を手に取り読んで、そして心の底から仰天した。というのは、ぼくにとって『1984』が(ありきたりの感想になるが)まさにぼくが生きている「この」日本の写し絵のようにさえ見えたからだ。これに関してはだが、もっと繊細な議論が必要となろう。読めるならくだんのナボコフ『ベンドシニスター』と対照しつつ『1984』を読み返せたらと思う。
Discordでこんな日本に関する投稿を目にする。その人いわく、日本の将来に関してあまり希望的な観測ができないというのだった。国内にさまざまな深刻な問題を抱えており、それがどうあがいても解決不能な問題にしか見えない……それはそうかもしれない。もしぼくが30代だったらこうした投稿にプロのコメンテーター気取り(なりきり)でひとくさり説教をぶつとか高説を垂れるなんてことをやらかしたにちがいないが、幸か不幸かいまのぼくは49歳でありそんなことは能力的にも美学の観点からもできっこない。このことはぼく自身、この国の国民・小市民としての「しがない」目線から考えるのがいいのかなと思っている。それにしてもこう暑いと参りそうになる。