跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/07/18 BGM: Tom Waits - Hold On

今日は早番だった。仕事をしつつ、こんなことをふと考えた。ぼくはどうしてこんなふうに本音を公に、自信を持って語れるようになったのだろうか。このことについてあれこれ考えると、それこそぼくは学生時代にずっとクラスメイトにいじめられてつらい思いをしたあの日々まで遡らざるをえない。なんだかんだで文字どおり地獄の思いを味わったあの時代を経て、東京のとある大学にぼくはもぐり込むことに成功する。そこはさすが世界に名だたる大都市だけあっていろんなナイスな人たちが集まるところで、ついにぼくにもそんないじめなんていうじめじめした心理とは無縁の愉快な仲間というか、真に友だちになってくれる人たちができた。

だけど、ぼくは自分が考えていることをうまく彼らに説明できず、それどころか自分を開くこと・打ち解けていくことがうまくできずしたがって本音を公に語れず、彼らがあきれてしまい「もっと心を開けよ!」とキレ始めるという有り様だった。でも、ぼくとしては本音を語りたくて(そして語っているつもりでさえあって)、だけど肝心なところで心の中にあるなにかがブレーキをかけて猜疑心をつのらせていたから本音を語れなかったのかなと思う。あるいは、単純にいじめの苦しみの中で本音を隠す練習をしてしまったせいでぼくはもう最低限のコミュニケーションさえできなくなってしまって、人として終わってしまっていたのかなとも思う。

そんなことを思い出すにつけ、ぼくはほんとうに穴があったら入りたいと思う。恥を感じる……でもその時まで、ぼくはほんとうに信頼できる友だちが生み出す空気を味わったことが文字どおりまったくもってなかったのだった。信頼できない人たち、ほんとうの自分を晒したらすぐにそんなぼくの本心の本音を踏みにじる人たちとの関係の中でぼくはすっかりひねくれてしまい、本音を隠してなんとか生き延びようとか自分を傷つけまいとか考えてひょうきんに振る舞うくせがついてしまったのかなあ、とか……いまならそう思う。そして、大学時代のぼくのことを思い出すとそんなふうな猜疑心・人間不信が極まってしまっていて、だからこそ人が自然と潮が引くように離れてしまったのかなとも思う。大学を卒業してから、友だちが皆無となってしまい孤独に呑兵衛の生活を始めることとなり……40まで文字どおり、1日たりとも酒を欠かしたことのない呑んだくれの日々を続けたのだった。

40になり、いろいろあって酒を断ち……その後ジョブコーチやいまの友だちと町にある古民家カフェではじめてお会いすることとなった。ああ、そしてそれから……ぼくはほんとうに信頼できる人間関係の姿(もしくは「旨味」)とはどんなものでありうるのか、それをそうした友だちから学び始めることとなる。オフラインでのミーティング、あるいはLINEグループのやり取りなどで、彼らの前でぼくは自分の弱さを晒すこととなった。爾来、ぼくはいまだにお金のやりくりやロマンティック・ラブに関して、あるいは職場の環境で苦悩していることなどを(あるいは最近ではフィッシング詐欺に引っかかりかけて、周囲を巻き込んでエラいことになったことも)晒してきたのだった。裸の自分を晒し、シェアさえする。それによってぼくは太宰治ばりに恥多き、しくじりだらけのエピソードを語ることに努めてきた(その一例がまさに上に書いたぼくの大学生時代のことだ)。

そんな経験から学んだ1つのレッスンとして、ぼくは確信を持って語る。ぼくの場合はそんな感じで信頼できる人間関係の中で本音を形成し、タペストリーを織るように織りなしてきたのだった。その人間関係がぼくに、恥を晒すこと・破れかぶれの自分を見せることを恐れなくていい(なぜならそれが仲間の証なんだから)と教えて・許してくれてきたと思う。難しく言えば、そうした人間関係が「セーフティーネット」になってぼくの命を守り、居心地いい居場所を与えたとも思う。友だちとは、ぼくがしくじり(失言・舌禍)などの醜態を晒しても無碍に逃げたり裏切ったりしないのだともいまでは確信できるようになった。そうした友だちとの歩みで、ぼくは自分の本音を明かす訓練をしてきたのかなと思う。その本音はたとえるなら、蚕(カイコ)が糸を着実に紡ぐような感じ、と言えばいいか。いや、なんだか書いていてそれこそ恥ずかしくなってきたのだけど。