いま、ぼくの日々の生活を振り返ってみると少しではあるけれど確実にたいせつな・貴重な瞬間的できごとが起こっているのを感じる。それを友だちにシェアしたいとさえ思うこともある。でも、こんなことを考えてしまいもして二の足を踏む。「それがどうしたっていうんだ? 誰もこんな『陳腐な』トピックやネタなんて見向きもしないだろう」。トピックをシェアしたいと思う気持ちとぼくの中の冷笑的なセンスがぶつかり合い、ぼくを混乱させる。シェアするかしないか、それが問題だ……なんて。この矛盾したアイデアはぼくを引き裂き、心を傷つけもするのだった。
この種の矛盾をどう形容したらいいんだろう。とにかく、ぼくの立場から言うとぼく自身はべつだん友だちがぼく相手にどんな面白い話題をシェアしようとしようがそれはちっとも問題ではないというのに(そういったネタが面倒だとか価値がないとか思うことはめったにない。このことで嘘はつくつもりはない)、ぼくはぼく自身のネタがただの時間のムダ以外の何物でもないとさえ思ってしまいもする。ああ……ぼくの心はほんとうに歪んでいて、だからこんなことを考えてしまうのだろう。
ぼくの場合、こうした日記を書くことについて、いつもぼくは自分の真実を嘘偽りなく書き記し、したがってどんなふうにも「面白おかしく」「エキサイティング」な味を出すような飾りつけをしないようにしている。言い方を変えれば「おいしくしない」ことを目指している。若かりし頃、ぼくは文字どおり平坦な・味気ない日常生活をワンダフルなものに飾ろうとか「盛ろう」とか考えていた。ネットフリックスのコンテンツよろしく面白いものにしよう……と。でも、そんなクリエイティブな想像力が枯渇したぼくにとって書くものはしたがってとても「サムい」ものになってしまったりもしたのだった。ああ、ぼくにとって真実をシェアすることはいまだ難しい。だからこそ考える余地があると言えるのかもしれない。
実際のところ、英会話教室でも10年も英語を学び続けてきたのにいまだにぼくは「日常会話」「雑談」「フリートーク」が苦手であることに気づかされる。ぼくの人間性(パーソナリティ)や発達障害の特性ゆえのものだろう。でも上にも書いたが、仮に好きなようになんでもかんでもシェアしていいよと言われたらぼくはためらってしまうだろう。そして、真実を語ることを妨げたり止めたりさえするかもしれない。たとえば、ぼくは今日ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』の文庫本を晴れて買い求めたのだけれど、こんな話に興味はあるだろうか。みなさんはどう思われますか?