跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/06/30 BGM: Blur - Parklife

今日は早番だった。今朝、仕事をしていてふと海外の方々と接する機会があった。守秘義務や彼らのプライバシーもあるのでもちろんくわしく・ことこまかに書くことはできないのだけれど彼らは日本語でぼくに彼らの意志を伝えんと必死で、ぼくも右往左往しながら日本語で接する。この場合、ぼくは日本語で「やさしく」「はっきり」接するべきだったのかどうなのかわからず困ってしまう。世界が日々グローバル化しているとはいえ、せっかちに・乱暴に英語を使うわけにもいかないので困ってしまうのが現実だ。

そんなこともあってランチタイムに、このことについて友だちに(もちろん肝心なことをあいまいにしたかたちでではあっても)相談すべきかどうか迷った。特に英会話で英語を教わっている先生たちやDiscordで頼りにさせてもらっている友だちに対して……でも、「なんか違うなあ」とも思ってしまい結局みだりに「共有」すべきでもないと思って思いとどまる。先生たちはアメリカの方でその外国人の方々はたぶん東南アジアの方々だから話題として「一緒くたに」持っていくべきではないと思ったのだった。失礼にあたるだろうし、それ以前に無意味かなとも。

このことについてあれこれ考えて(でも心配しないでほしい。というのは、少なくともぼくの主観ではぼくは「失態」「失策」を犯したわけでもなさそうだったからだ)、こんなことを心配し始めてしまった。ぼくはなんだか、いつしか「言語スノッブ(俗物・愚者)」になってしまっていたのだろうか、と。英語を学ぶのは好きとはいえ、いつしか英語が世界で通用する言語だと信じ込むナイーブでイノセントなうつけ者になっちゃっていたのかな、と……あるいは、英語を学ぶことがぼく自身の内面を成長させるためと信じ込む気持ちが強すぎて外にいる「他者」「他人」への思いやりを込めたコミュニケーションができなくなってしまっていたのかなあ、とか。もしそうだとしたら大事な真実をそそっかしく忘れてしまっていたことになり実に汗顔の至りである。

なんにせよ、これは面白いレッスンであったことに間違いない。ランチタイムの残りの時間、ふと(脈絡なく突然)差別について考え始めてしまった。こんなふうにいろんなことを考えるのが発達障害。でも、たぶんこんなことを考えたのは上に書いてきたようなあの外国の方々をふたたび思い出してしまったからで、その方々が日本語を使うにあたっていろんな苦労がありえたのかなあと「想像」「空想」したからでもあるのだった。いや、彼らの事情をまったくもって知らない以上こんな「空想」は厳禁かもしれない。偏見に染まった考えからはなにも新しいことは生まれないだろう。

そんなこんなでたっぷり・ダラダラ書いてしまったけれど、結論としてはもっと市内の外国人の方々と接する・対峙することが大事だろうと思ったのだった。彼らがどんなことを思い、どんな意見を持っているか。もちろん、「外国人」を代表できる人がいるわけではなく具体的にたくさんの方々が外国人として暮らしているというかんたんな事実も押さえておくべきとも思う。「多様性」とはそういうことだろう、と。今日も無防備にあれこれ書きなぐってしまったが、なんだか不安になってきた。頭でっかちになりすぎていたり、無知・偏見を晒していたりしていそうで……いつものこととはいえ。