跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/03/22 BGM: Janet Jackson - Got 'Till It's Gone

今日は遅番だった。今朝、ビオリカ・マリアンの書物『言語の力』の再読を始める。最初にこの本を読んだ時、そのオプティミスティックで前向きな論調・意見に感銘を受けたことを覚えている。外国語を学ぶことはぼくたちの思考をより広がりのあるものにする――これがこの本の骨子となる意見の1つなのだろうと思った。ぼくも賛同したい。でも、だからといって簡単に「だから多言語話者はすぐれているのだ。人として、完全に異なる存在なのだ」というような印象には飛びつきたくない(もちろん言うまでもないが、この本の結論もこんな簡単・粗暴なものではない)。

ぼくの場合はどうだったのだろう。考えてみたい。経験やぼくが感じる率直な感覚から、ぼく自身自分は英語(まったくもって「異国」「外国」の言葉)を使い始めると考えが確かな「輪郭」を帯びはじめてはっきりしたものになってくるのを感じるとは言える。でも、その理由はぼくにはわからない。ぼくはこれについて考えると、ぼくが日本語という見えない・ヴァーチャルな檻の中にいるような気がする。そこから出ていけない、体系・システムの檻……。

日本語が非論理的でわけのわからない言語だ、という意見に飛びつく気はない。ぼくは明晰な論理を備えて実に整理整頓された文章を書き、かつ論理展開によって体系を築き上げてきた日本の作家・哲学者を知っている。少なくとも、ぼくにとって春樹とは(もちろん、彼よりすぐれた作家が歴然として何人も存在しうるとしても)そういう「モデル」だ。あるいは逆に、ぼくのこの英語・日本語の書き物の中にあるぼくの考え方がどうしたって「あいまい」で「わかりにくい」ものだと思われるかもしれない。だからこの点において、本書を手にもっと深く沈思黙考を続ける必要がある。ぼくは単なるスノッブバイリンガル気取りの人間だけど、あらゆる言語の中に尊厳があることは受け留め、感謝したいと思う。

ところで、最近になってぼくは大谷翔平とタッグを組んで仕事をしてきた通訳の人物のニュースが気になっている。いや、情けない話だがぼくは部分的に報道されたニュースを聞きかじった程度の知識しかない。でも、彼がギャンブル依存で苦しんできたということはわかった。ぼくもまた依存症を抱えているから、だから関心が離れないのだ――ぼくの場合はアルコールだ。どうやってその依存から身を離し、どのようにして地道に回復していくか試みている(9年間にわたって、なんとか断酒が続けられた)。

こうした依存症者に必要なのは確かなケアであり救助だ。だから、相手の意見を聞かない厳罰は事態を端的に悪化させうる。何もかもがうまくいくことを祈る……そして、ぼくはこれに関してもっとていねいに、繊細に掘り下げる必要があると感じる。