跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/07/01 BGM: The Ventures - Walk, Don't Run

今日は遅番だった。今朝の読書タイムは実に刺激的な1冊、酒井邦嘉『言語の脳科学』を読んで過ごした。ぼく自身の脳についても思考を深めることを誘う1冊として受け取る。この本を通じてぼくはいろんなワンダフルな事実を学んだ。この世界には数多と言語が存在するというはっきりした事実(当たり前じゃん、と言われるかもしれないが日本語と英語が主を占めるぼくの生活ではこんな単純なことも忘れてしまいがちになるのだった)。そしてぼくたちのクリエイティブな思考能力は日々用いる言葉によって培われているということ。たしかに、ぼくは自分が言葉を使えなくなってこんな感じで考えを織りなせなくなったらどうなるかなんて想像できない(だが、それは起こり得ることでもある。たとえば失語症がそういう障害で、それに襲われてしまうと言葉で思考を織りなせなくなる基礎的な言語能力が失われる)。

たぶんこの発達障害のヘンテコリンな脳のせいで、人はぼくの言葉遣いをおかしいとしばしば形容する。たしかにぼく自身、過去を振り返ってみても村上春樹を浴びるように読みあさって過ごしてきて(あるいは他には、ポール・オースタースティーヴン・ミルハウザーといった作家を読んだりもしたっけ)、それが「血と骨」になってしまっていてこのロジカル(?)な思考に影響したりもしているのだろう。ある意味、ぼくはユニークなぼくだけの言葉を書く。でも、それは他人と共感・共通認識が可能な「コモン」「共同」の要素を持ってもいる。

言い換えるなら(ごめんなさい、いまどう書いたらかんたんに・わかりやすくなるか考えながらあれこれ苦吟してこの文を書いている)、心の中を覗いてみたらそこにはぼくの人間性や性格tを形作る個性がある。でもその個性は同時にこれまで体得してきた・学んできた伝統的な要素によって裏打ちされてきたものでもあるだろう。上にもすでに書いたように、ぼくの場合はそれが村上春樹のたくさんの(大傑作もポテンヒットも含めた)作品群であったりたくさんの音楽だったりしてきたということになる。

話は唐突に変わり……アホな事実を記しておくと、読書タイムに(そのとき、雨が降っていたというのに、じめじめしてうっとうしい空気の中一服の清涼感を味わいたくサーフ・ロックを楽しんでいたのだけど)フードコートをふと見渡したところ、2人の学生服姿の女の子を見かけた。女子高生だろうか。彼女たちの女性的な、豊かな肢体に惹かれた。そういうこともあるのだった……そして思う。誰もの心の中に「唯一無二」「ワン・アンド・オンリー」なパーソナリティ、かけがえのない人間性が内在する。それは同時に豊潤な過去の伝統的な遺産から形成される。ふと、タランティーノの映画を思い出した。深作欣二(いや、恥を忍んで言えばぜんぜん観たことはないけれど)などから形成されたエッセンスを『パルプ・フィクション』などの綺羅星の作品群の中に結晶させた仕事の数々だ。そんな感じで1日を過ごした。