こんなふうな英語のメモ書き以外に、ネットで英語でチャットをしたりして日常生活に英語を取り入れていたりもする。でもぼくにとって、こうした試みはべつだん「英語を学ぶため」「学習・勉強のため」というような苦行めいたことを意味しない。少なくともそんなふうに苦しいことだと思ったことはない。むしろこうしたことは極めてナマケモノの心を持つぐうたらなぼくにとって、ゲームに興じるような感じで英語を使って「戯れている」「プレイしている」というように受け取っている。毎朝性懲りもなく英語で日記を書きつけたり上に書いたような英語のメモを書いたりするのだって、「努力」とか「苦労」とか「修練」とか思ったことはこれっぽっちもないのだった。そうしたことはとても自然に身についたというか生活の中になじんだので、いまもって習慣として続けられているのだった。
たまに(「たまに」です)、ぼくが「才能がある」「ギフテッド」だからそんなことができるんだと言われることもある。でも、ぼくにそんなキラキラした才能がありうるんだろうか。あるからそんなことができるんだろうか。ぼくは自分になにができるのかやれるのか、はたして能力があるかどうかを考えて動いたわけではなかった。いやもちろんそうした考え方は合理的だしきわめて大事だろう。でも、すでに書いたようにぼくは好奇心や興味関心を大事にしてそこから未知の喜び目指してまっしぐらに動いてしまう。ぼくはぜんぜん英語をマスターしたわけではない。完璧超人ではない。それは当たり前のことで、だから恥をかきかき・汗を流してこの凸凹だらけの自分の特性・能力に向き合い日々を生きている。
最近になって、グループホームの管理者・副管理者の方々が部屋を衣替えを兼ねて整理整頓して下さった(あんなにたくさんあった本の数々も整理して下さったので、それを思うと「足を向けて寝られない」とさえ思う)。いま部屋を見渡すと、英語学習に関する本も見つけることができる。ルイーズ・グリュックの分厚い詩集も買い込んで英語の詩を知ろうとあがいたこともあった。でも、たやすくわかるように「ローマは一日にして成らず」、英語学習も一日二日で体得できるわけもないので日々地道にやることが大事ということになる。どんな手段(メソッド)が自分に「しっくりくる」か。ぼくの場合はメモパッドを使ったり英語の日記を書いたりすることがそうして「しっくりくる」ものだったということになるのだろうと思う。まあ、そういうのも人生の醍醐味なのかなあと思う。まったくもって「オチ」がない話だけれど。
「蝸牛(かたつむり)そろそろ登れ富士の山」(小林一茶)