跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/05/26 BGM: Radiohead - Fake Plastic Trees

明日、またドクターに会いに行ってぼくが抱える問題について彼と話し合わなければならない。そしてクスリをもらうことも忘れないようにしないと……大学生の頃、すでにぼくは人生に絶望してしんどい思いをしていた。その頃に読んだ鶴見済人格改造マニュアル』や『ロッキング・オン』の影響で東京のクリニックの門を叩き、そしてこの毎月恒例のドクターとの面会をはじめたのだった。最初は愚かなことに、クスリをもらって脳を変革させてしまえばすべてが解決するんだと信じ込んでいた。キツいクスリがガツンと問題を解決する、と。でもそんなことあるわけもなく、生きづらい思いはなかなか消えなかった。40になりいまのジョブコーチやその他の友だちと出会い……考えがその友だちとの交際によって変わってきた。ぼくは自分の問題を自分のこの眼で眼差し、「自力を信じて」(ナンバーガール)向き合わないといけないのだ、と。いやもちろんドクターもぼくを助けてくださる。でももちろん、ぼくこそこの人生を主体的に生きる主人公なのだ、と思えるようになったのだった。

それはそうと……ぼくの心とは本当に不思議なもので、人生でこれまでやみくもに・でたらめに聴き漁ってきた音楽の記憶というものが眠っているものだ。今日、ぼくはその昔さんざん聴き漁ったレディオヘッドというバンドの曲(とりわけ愛聴した『ザ・ベンズ』というアルバムの曲)がよみがえってきたので仕事中にずっと反芻していた。大学生の頃にすでにぼくは自分が非力で、無能でお先真っ暗な人だと信じ込んでいた(この世・この社会が生んだ犠牲者なのだ、と)。そんなぼくに彼らのメッセージやメロディは沁みた。多大な優しさを感じたりもしたのだった。

いまでもぼくはときおり、この人生はクソだとさえ思うことがある。人生はいつもぼくをがっかりさせる……この日記で書いてきたように、ぼくは強くなんかない。いつも疑い深いアイデアで揺さぶられていて、エッチなことやその他人間不信に動じつづけ、ピリピリ動揺しつづけている(「不惑」? ありえないことだ)。さっき書いたレディオヘッドの曲はつねにそんなぼくを癒やし、そして信じさせる。彼らの表現を使えばそんな感じで人生がもたらす「永遠の痒み」というものがありえて、でもそんな感情をぼくやあなたも感じるという一点の事実でぼくたちは「わかりあえる」(「そんなことあるよね」「だよねー」な感覚でつながれる連帯と言えばいいか)。人生はクソだ。でも、ぼくたちは孤独じゃない……少なくともぼくにとってレディオヘッドの曲はそんなつながりの可能性を示唆する。いや、彼らの曲を字義通り聴くと(皮肉にも)「ぼく・あなたは世界・社会によって孤独にさせられて狂うしかない」というようなメッセージばかりかなともぼくには映るのだけれど。

過去に、元上司に「しょせんはフリーターだ」と暴言を吐かれたことがあった。正規雇用・正社員ではありえない、と。バカげたパワハラまがいの暴言でありとっとと忘れるのが妥当だろう(その上司にしてみれば「発破をかける」「ぼくを怒らせて鼓舞する」意図もあっただろうにせよ)。でも、いまだにぼくは忘れられない。当時はそして、ぼく自身もぼくはアウトサイダーでこの社会が産み落とした失敗・欠陥品と思い込んでいた。でも時代は変わり、発達障害をめぐる環境も確実に変わり、ぼくも変わったのかもしれない。タフになれたのかな、と。ぼく自身の心の中にある自尊感情・フォースを信じられるようになった……のか?