跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/04/15 BGM: Underworld - Bruce Lee

今日は遅番だった。今朝、いつものようにスマートフォンSpotifyを開いてジョン・スコフィールドの曲をあれこれ聴き始める。突如としてこんな疑問を抱いてしまった。「これがほんとうにぼくがいま聴きたいと思っている音楽なんだろうか? 自分の意志でこのジョン・スコフィールドを聴きたいと思ったのか、それとも単にスマートフォンのサジェストに決められて聴いてしまっているんだろうか?」。言い換えれば、その決断はとても自動的(オートマティック)なものだったのだ。

もちろん、そんな感じで自動的にあれこれ考えてしまうことはたいしておかしなことでもないだろう。ぼくのことを言えば、自分で言うのも実に手前味噌というものだがぼくは実に「頭でっかち」な屁理屈野郎である。だから、いろんなことに向き合って生きているとついつい考えを深めるあまり歩みを止めてしまわざるをえない。でも、読者はどう思われるか見当がつかないけれど、ぼくの考えとはフレキシブルに・自由自在に発展したりしない特性をも持ち合わせていると思う。それはこの発達障害も関係しているのだろう。ついつい頑固な考えに固執してしまい、現実から遊離した「使えない」ものになってしまう。「死刑は何が何でも禁止だ」とか「テロリストとも対話を」みたいな、立派ではあるだろうけれど「で、実地でどう実現していくの?」となると答えられない類のドグマならいまだにぼくの中にある。

きわめて深遠でこんがらがった1冊なのでぜんぜん手に負えないのだけれど、でもこの話題について考える際にぼくは(あまりにも難しすぎて全部読めてないという情けない有り様ではあれど)テオドール・アドルノ『ミニマ・モラリア』について思いをめぐらせる。ぼくの考えでは(そう、あくまでこのアホなぼくのとぼけた大づかみな読みから類推したらば)、アドルノはその本の中で多彩な意見を述べているがその1つは「それがあなたがほんとうに望むことなのか?」と問うているように思う。たとえば、ぼくの話を上に書いてきたことにつなげつつ言えばXでぼくはついつい自動思考に基づく意見を書きたくなる。「脱原発」とか「ダイバーシティ」とか。でも、ベースに戻らないといけないだろう。それはぼくが経験から得た「血の」真実なのか、それとも自動思考に基づくものなのか。

といったことを(上に書いたように)考えて、一段落してから菅野久美子『孤独死大国』という本をかじってみた。ぼくはおわかりのとおり、ただのド素人の読者であり専門性を持たない、プロの知識もへったくれもない人間である。だから学識・研究成果ではなく「私語り」しかできないのだけれど、思い出したのはぼくは地域や学校で人間関係からずっとハジカれて、おみそにされてつらい思いをしてきたことだった。この発達障害のせいで変な人扱い(もっと言えば奇人扱い)だったのだ。だから、つながりが大事という意見を信じられなかった。でも、この本は社会におけるつながりの大事さを説いていて説得力に満ちている。もちろん、まだ読み始めたばかりなので偏見を可能な限り捨て去って、イノセントな心で読み進めていかなければなるまい。