跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/01/22 BGM: Nine Inch Nails - The Perfect Drug

今日は休日だった。通院日であり、病院まで行って先生にお会いする。この精神的な悩み・問題の「棚卸し」をすべくこうして先生たちにお会いする「月例」の面会を始めてからいったいどれくらい経つだろう。ぼくがまだ20歳そこそこだった頃からだろうか。まだ、ぼく自身が発達障害者であるとわかっていなかった頃からだ。ああ、長い月日が経ったものだ……。

その後、いつものようにイオンに行きそこでぼくの好きな作家である津原泰水のすさまじく素晴らしい、しかし確実に眉をひそめられる作品『ペニス』を読み始めた。卑猥なことを極力はぶいてこのすばらしい作品を語るにはどうしたらいいのだろう――この世界、このリアリティ(現実)とはたった1つのものだとぼくは受け取る。地球が1個の惑星であるとかそういうのと同じ意味において。しかし、その内側でぼくはいつもさまざまなことがら・ものごとを腑分けしている。たとえば、「人は男と女に分けられる」といった具合(いや、こんな単純な分け方は時代遅れだよというツッコミもあるだろう……ごめんなさい)。あるいは「事実と虚構」「現実と幻想」も考えられる。

たしかに、こんな感じでなんでもかんでもクリアに分けていく試みは世界をわかりやすく、把握しやすくするものだ。言い換えれば世界はそんなふうに腑分けする前はとてもカオス(混沌としたもの)であり、ゆえに豊饒でもあったということになるだろうか。この力作で津原泰水はこの世界やこの現実の真の姿を実に圧倒的にエレガントで、矛盾するが野蛮極まりない筆致で描ききる。もしぼくがもっと若かった頃にこの作品を読んでいたら、この筆に完全に参っていただろうと思う。猿真似さえしたかもしれない。

少なくともぼくの意見では、この種のマジカルで謎めいた力は小説が持ちうる凄味だと思う。そんなふうに影響を及ぼしうるほどの力を(悪影響も含めて)持ちえた作家たちをぼくは個人的に思い出す。実を言うと、決して読みやすい作品ではない(もちろん日本語で読んだわけだが、としてもほんとうにすごかった)。でも、サルトル『嘔吐』や村上春樹のスウィートな傑作群と充分拮抗する作品とぼくは信じる。今回の読書で、こんなことを考えついた。ブレット・イーストン・エリスアメリカン・サイコ』にならって、この作品を『ジャパニーズ・サイコ』と形容するのはどうか、と。

夕飯を食べ終え、R・D・レインの『引き裂かれた自己』のページを少しめくってみた。これも読みやすい作品とは言えないのだが、でもこんなアイデアをもらえたように思う――ぼくは過去、ほんとうにつらかった時期を体験している。なのでいまでも身体と心が深刻なまでに「分離」した感覚を感じることがある。自分の身体が自分のものではない、というような……両者をつなげて一体感を感じ、「自分はここにいる自分だ」という満足感を持つことが大事かなとも思った。その意味で、ぼくが参加しているグループ(断酒会、発達障害を考えるミーティング、英会話教室、zoomミーティングなどなど)は大事なものなのだろう……。